1.アレス湾の藻屑と消えた色紙


はじめに

産業構造の変化、技術革新により、従来思いもつかなかった様な船が現れ、ULCC、コンテナ船、自動車専用船等も今では珍しくなくなって来てしまった。そうして、船体の損傷も船の種類に応じ、新しい例が報告されている。しかし、一般的に見られる損傷は昔と比べ大差はない様に思われる。

以下、普通の貨物船を対象にして、船体各部の損傷と修理対策を順を追って取り上げ、出来れぱ、その後でタンカー等専用船の例を紹介することにしたい。今回は特に第1回として1980年春に起った肋骨の損傷に端を発したと考えられる沈没事件につき、想像をまじえて書くこととする。


アレス湾の藻屑と消えた色紙

その色紙は今、日本から遠く離れたスペインの西北端、ローマ時代に建設され、現存する世界最古の灯台、ヘルクレスの塔(La Torre de Hercules) が僅に望めるラ・コルーニヤ市(La Coruna)に近いアレス湾(Ria de Ares)の海底に永久に沈んでいる。




ヘルクレスの塔


1.身売りされて

EXPO'70 の開幕が間近に迫り日本中の目が大阪の千里にむけられていた頃、処女航海を前にして、造船所から完成、引渡しを祝して船長に贈られた竹内栖鳳画伯の色紙は、狭いながら落付いた感じの船長室に一つの色を添えたものだった。それは鳥の絵だった、確か鶉だった様な記億がある。

常に船長と共にあって、ボルネオ、フィリピン或は中国へと幾多の荒波を乗り切り、日本の繁栄の一翼を担ったものだった。

それから8年、変遷する経済の流れには勝てず、この色紙の主はギリシャ人の船長に変り、日の丸はギリシャの国旗に変った。不用になった日本の書籍、碁、将棋、麻雀牌等が処分されたが、幸にこの色紙は処分を免れ船長室に残されることになった。しかし、日本の絵の価値を知らぬギリシャ人船長により壁から外され部屋の片隅に放置され、その場所には女の安っぽいピンアップが掛けられた。もはや日本に寄港するすべもなく、地中海、ヨーロッパ、アフリカと行方定めぬ旅枕と云った感じで流浪の旅が続けられた。

1980年2月、象牙海岸 (Cote d' Ivoire) のアビジャン(Abidjan)に入港、ヨーロッパ向けの原木を艙内と甲板上に満載、アフリカ西岸をかすめ北上、最初の揚げ地、スペインのビゴ (Vigo) に向け平穏な航海が続いた。部屋の片隅の色紙は既に埃だらけになっており、船長の飼っている人間程の大きさのシェパードの毛が額縁やガラスにこびりついていた。

2月26日、早朝、右手遥かにヨーロッパ大陸最西端、断崖絶壁の上に立つロカ岬 (Cabo da Roca) の灯台が見えて来た。






ロカ岬


目的のビゴ迄あと20時間足らず、積荷の際アフリカの黒人に散々悩まされたが、明日はスペインの美しいセニョリータにも会え、美味しいワインにもありつけると云う期待で乗組員もすっかり元気を取り戻した感じだった。この時3000G/Tの船体は僅に左舷に傾き、おもてを突込んでいるのが判明した。早速各部の測深を行ったところ、タンクは異常なく、一番艙のビルジがかなり増えていることが判った。一番に浸水しているらしい。ビルジ・ポンプで急拠排水開始、排水が進むにつれ徐々に傾斜は直って行く浸水の量はそれ程多くなさそうだった。

照明を準備させ、船長は大工、甲手を連れて満載の一番に入る。2月と云うのに艙内はアフリカの熱気がまだ残っているかの様にむっとしており、光を慕ってか小さな虫がデッキ裏と原木の間の狭い空間を飛ぴ廻っている。蛇やトカゲも原木と一緒に入っているかも知れない。デッキ裏まで満載された原木はつるつる滑り、デッキガーダーに背中をぶつけながらデッキ裏を這いまわり、水漏れの音がするのは左舷前部の下の方だと云う事が判った。

これから、その位置迄降りて行くのは並大ていの仕事ではない。何かのはずみで、直径2mもある様な原木が動いたりして、その間に挾まれたらひとたまりもない。それでなくても濡れた丸太は滑り易く、外板と丸太の間の隙聞を伝って下に降りるのに20分近くもかかってしまった。数本の肋骨の下端から海水が吹き出ている。その部分を指で触れると、外板に僅に段がついており、板が5僂阿蕕こ笋譴討い襪里指先に感じられた。浸水個所の位置と数を記録する。既にビルジは殆ど引けているので、腹這いになり他の部分も調べてみたが浸水しているのは左舷前部、艙内肋骨5本の下端のみで、調べられる範囲において、他には異常は認められなかった。アビジャンで積荷の前に艙内の点検を行った時は全然異常は無かったので、多分流木か何かが接触して亀裂が生じたに違いない。この間にも船は一歩一歩ビゴに近ずいている。このまま様子を見て排水を続け、注意して航海すればピゴには予定通り入港出来る。しかし、ここでの揚荷は僅か150t、脚は殆どあがらない。この状態で揚荷後直ちに最終の港、フランスのオンフルール(Honfleur)に向う事になるが、ルアーブル(Le Havre)に近いそこに着く迄には名にしおう冬のビスケー湾を乗り切らねぱならない。冬のこの海域はヨーロッパでは最も危険なところの一つとされている。今迄の様な平穏な海象、気象は期待出来ない。もっともスペイン北岸には、エルフェロール(El Ferrol)、ヒホン(Gijon)・サンタンデール(Santander)、ビルバオ(Bilbao)と造船所のある港があり、フランスに入ってもボルドー(Bordeaux)、ブレスト(Brest)、少し小さいが、シェルブール(Cherbourg)があり、若し事態が悪化すれぱこれらの造船所で何等かの対策が立てられる。しかし、荒天に遭遇し事態が急激に悪化しないと云う保証はない。

船長は悩み続けた。そう云えばビゴにも、本船が入れる浮ドックがある筈だ。しかし、今、判っているのは艙内でやっと発見した5個所の亀裂だけだ、外面は一体どうなっているのだろうか? 

船長は遂に安全第一の道を選んだ。少し引き返すことにはなるが目と鼻の先にリスボン(Lisboa、リスボンは英語で、ポルトガル語ではリシュボアと呼ぶ)があり、ヨーロッパでも最大級のドックを誇るリシュナベ(LISNAVE)造船所もある。美しいセニョリータは居ないが、ダイバーもサーベヤーも居り損傷の詳細も判り、応急処置も可能だ。損傷の詳細も把まずビスケーに挑むのは危険だと判断した船長は、関係方面への連絡を通信士に命じ針路を南に変えた。

図1:欧州西部の地図


2.リスボンにて

やがてリスボン港入口のカシカイシ(Cascais) に投錨、パイロットの乗船を待つ。この間もビルジの増加の割合は殆ど変らず、浸水が増える徴候はない。パイロットが乗船、錨地も決りテージョ河(Tejo)を遡行してゆっくり港に向う。この河はスペインのマドリ(Madrid、マドリードは英語でスペイン語ではマドリと発音する。序にスペインも英語で、本来はイェスパニヤEspanaと呼ぶ)附近に端を発し、国境を越えて、リスボンから大西洋に流れ込む河で、港の入口は狭いがふところは広く、大昔から天然の良港として栄えており、また世界でも美しい港の一つに数えられている。速いあげ潮に乗って錨地に近ずくと左手に16世紀はじめバスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)が印度航路を発見した頃建てられたベレムの塔(Torre de Belem)と、その後、続々と発見された新大陸からもたらされた富によって建設されたマヌエリン建築の粋と云われる広大なジェロニモス修道院(Mosteiro dos Jeronimos)が美しい姿を現す。




べレムの塔




ジェロニモス修道院




4月25日橋


ヨーロッパで一番長い吊橋“4月25日橋"の下をくぐったところが錨地だ、左前方に七つの丘の上に建てられたと云う中世そのままのリスボンの町が望まれる。山を背景に近代的なビルの建ち並ぶ香港、オペラ座とハーバ・ブリッジを誇るシドニー等も美しい港だが、あまりにも近代化しアメリカナイズされた高層ビルが殆ど無く、太陽に輝く白壁とオレンジ色の屋根の家々、古い教会、城跡が木々の緑に映えるリスボンの港を眺めていると、タイムマシンで突然中世に戻った様な素朴な美しさに魅せられる。

潮流が速い時で6〜7ノットもある事を考慮して投錨作業は入念に行われ、引続いて代理店をまじえて関係官庁による入港手続が終った。この間も随時ビルジ排水作業は続行されている。午後3時、予め手配していた通り、サーベヤー、修理業者がランチで来船、早速損傷部の内外からの調査が始まった。二年ぶりで、その色紙は作業服に着換えている日本人サーベヤーの目を楽しませたものだった。汗びっしよりになって船長室に戻ったサーベヤーは、開ロ一番事態の重大性を力説、単なる外板の亀裂ではなく、肋骨下端のブラケットが船底外板から外れて肋骨の足もとがブラブラになった為に生じた外板の亀裂であること。浸水個所は7個所あり水止めの工事のみではピスケー湾を通過する今後の航海は危険である事を述べた。そうして定石通り早急にドックに入れ、完全修理を行う様勧告した。彼は船長室で水中で調査しているダイバーの報告を待ったが何の音沙汰もない。船長は気の毒がって夕食のサンドウィッチを準備してくれた。11時迄待たされたが、遂にあきらめサーベヤーはダイバーの調査結果は後日聞くとして、待たせていたランチに乗り夜景の美しいリスボンに戻って行った。




図1 左舷の損傷状況






肋骨下部の状況(この船の肋骨ではない)



せいぜい二重張りで浸水を止める作業をすれば出帆は可能とふんでいた船長にとって、すぐドックに入れる様にとの指示は青天の霹靂だった。船令はまだ10年、一年半前に定期検査を済ませ、状態は決して悪くない、所謂ギリシャのボロ船とは格が違う、積荷前に今まで何回も艙内を点検したものだが、ブラケットが外れていた様子は認められなかった。それに、何時から浸水したか判らないが、遥かアビジャンからここまで無事に航行で出来た実績もある。サーベヤーの要望は少しオーバーではなかろうかと船長は考えた。サーベヤーの話では、今リスボンのドックは満船との事で大分待たされる様な口ぶりだったが、代理店にドックの手配を依頼、ピレウスの本杜に電話連絡すべく上陸した。事態に驚いた本社は急いで監督をリスボンに派遣することを約した。本船の処置を機関長と一航に託し、10年振りで歩くリスボンの町は、壁に貼られた選挙ポスター、落書きを除き、昔と全然変りはなく、木造の市電が狭軌の上を相変わらずよちよち走っていた。黒人ばかりのアフリカと比べれば、治安も良く、港のバーは各国からの船員で賑わっており天国に来た感じだ。

本船と比べると島の様に大きい20万トン、40万トンと云ったULCCが入渠できる造船所が建設され、これらの船の乗組員がバー街で落す金は相当なものであろう。

2月27日監督が夜の9時にリスボン着、11時からホテルで関係者をまじえて協議が行われる事になった。代理店を通じサーベヤー、修理業者に集ってもらう様連絡を頼んだ。夜遅いので皆集ってくれるかいささか気になる。

ダイバーの報告によれば、浸水個所には水平方向に最大5冂度の亀裂が生じており、一部は少しU字状にめくれかかっているとの事で、外部からの水止めは可能であるが、曲がり外板で肌が荒れているので、水中溶接による外側からの二重張りは困難との事であった。又、代理店の報告では、ドックは現在満杯で少なくとも一週聞は待たねばならず、吃水の関係で貨物は瀬取りが必要とのことである。えらい事になったものである。いっそのことリスボンには寄らず、そのまま航行を続けた方が良かったのかも知れない。船長は悩み続ける。

タ食後、代理店の者と空港に監督を迎に行く、彼は船長の先輩のキャプテン経験者で、今は会杜の首脳の一人になっているが気安い仲間の一人だ。

空港は市内にあり車で15分ぐらい、ここだけは古びた市内と違って近代科学の粋をつくした747、727、DC-10、エアーバス等が翼を休めているのが照明に浮び上っている。ポルトガル航空のTAPの飛行機が一番多いのは当然だが、この時間になると国際線、国内線とも発着は少なく、工事中の国際線の出口に出迎る人々もまばらで、国際空港とは云え、ロンドンのヒースロー、パリのドゴール等の様な華々しさは微塵もない。空港からして、ポルトガルは地味な陰気な感じがする。30分ぐらい遅れてSAS261便が着陸、背の高いAが出口に現れたのは着陸後一時間もたたないぐらいの間で、季節がら観光客も少なく、入国、税関も簡単だった為と考えられる。早速市内の一流ホテルに向う。

10時半ホテルの小会議室で対策会議が開かれた。代理店、修理業者、ダイバー、サーベヤー等16名が集り船主側から出来るだけ早く修理を行い揚地に向いたい事、ここで4000トン以上ある原木を瀬取りする事は非常に難しく、ドックでの完全修理は最終揚地で荷役後に行いたい旨希望が述べられ、何れにしても総ての処置はサーベヤーの指示に従う事が強調された。サーベヤーは、既にこの様な船主の希望を察しており、フランスで揚荷完了後、速にドックに入れる事を前提にした応急修理の方案を2件用意して来ていた。そのコピーが皆に配布された。これを基にして討議が行われ、第1案として水中溶接により外側から二重張りを施す案は、前に書いた理由で非常に困難であるとの意見が、修理業者から出て不採用になった。結局、第2図に示す第2案が採用される事になり、討議は具体的な施行方法、工事期間、費用等に移った。監督と船長はギリシャ語と英語、ダイバーや、修理業者のフォアマン等はポルトガル語、代理店の連中が通訳の代りをして話が進められる。日本語ぬきの小規模な国際会議と云う訳だ。水中作業の担当者から、現在の錨地は潮流が遠く一日のうちで流れの止る数時間しか作業が出来ず、水の汚れの為視界も悪く浸水を止める作業だけでもかなりの日数がかかる旨発言があり、相談の結果、流れが緩く、水の透明度の良いカシカイシ湾に本船をシフトし、先ずそこで水止めを行うことになった。しかし、ここでの修理工事は、この湾が錨地ではない為最低必要限度の作業以外は許されず、再びリスボン港内にシフトし内部の鉄工工事が続行されることになった。原木を積んだままの狭隘で作業条件が最悪の艙内での鉄工工事が可能か否か、満足な作業が出来るかどうかが、サーベヤーの最大の関心であったが、この質問に対し、修理業者より、本船で照明と換気を段取りしてもらえれば材料の搬入、応急修理の溶接工事及びその後のセメント・ボックスの施行はなんとか可能との返答が得られた。溶接により応急修理を行う一番の二重底タンクがバラストであった事が唯一の幸であった。若し燃料タンクであった場合溶接工事が出来ず事態はいよいよ面倒になった筈であり結局、完工は3月3日日曜日、出帆は翌4日早朝との線が確認され、夜風が冷い1時近くに会議は終った。




図2 応急修理の方法
(この工事の後、セメント・ボックスを施行した)



3月3日、日曜日、日本ならば雛人形を飾って、あられ、菱餅、お白酒でのんびり出来る訳だが、外地のサーベヤーにはそんな賛沢は許されない。代理店から予め連絡があった通り午後3時に代理店に行き、ランチで本船に移り、最終の完成検査を済ませ、必要な書類を片付ける為には、早出をして、造船所に行き、前から検査の為にドックしている別の船の仕事を午前中に終らせておかなければならない。

その日は前線が通過する事になっており、空はどんよりと曇り時折りひどい雨が横なぐりに降っては止みしていた。予定通り造船所での検査が午前中で終り、フィリピン人の船長の好意により、本船でフィリピン料理の昼食を済せ、サーベヤーは休日で人気の少い造船所を後にし、代理店に向った。

一体どうした事だろう。代理店には誰も居らず、休日用の出入口の扉も閉まったまま、ベルを何回押しても返事がない。休日の為、担当者が遅れて来るのかと思って待つことにした。目の前の雨あがりの道を家族連れの車が水しぶきを立てて何台か疾走して行くだけで、日曜日の港の近くは殆ど人通りがない。やっと車が一台来て店の前で止った、しかし降りて来たのは隣の別の代理店の者でガッカリ。4時近くになっても何の音沙汰もない。日本と違い公衆電話も近くには無く、仕方ないので、作業服、靴、ヘルメット・ライトそれに書類の入った鞄を下げて艀溜りに行く事にした。横なぐりの雨がまた降り出して傘もさせない。下半身がビシヨ濡れになってやっと辿着くと、雨ではっきりは分からないが錨地には本船の姿は見えないではないか、まさか沈んだわけではあるまいと思いながら辺りを見回すと、ここも人一人居らず倉庫のかげに、カッパ(ポルトガル語)を着たお巡りさんが雨やどりをしていた。3時頃代理店の者がこの辺で待っていなかったかと聞いたが、そんな男は見なかったとの事、念の為もう一度代理店に引返してみたが、前と同じ、時計を見ると5時半、時々あるように何か連絡の手違があったに違いない。結局あきらめて帰る事にした。

女房の話では、昼頃ポルトガル人から電話があり、言葉が判らないので、ハズバンドは仕事で出掛けており夜にならないと帰らない旨英語で答えたが、先方は勝手にしゃべりまくり何を云っているのか判らず困ったとの事、その後も再三、同じ人から電話があったそうである。代理店の担当者の名刺には自宅の電話が無く、電話で調べると同性同名がずらりと続いており、推理ドラマの刑事の様に片っぱしから掛けて連絡を取る気にもならない、何せ日本語は通じないのである。この様な時は待つより仕方がない。

夕食が終った9時頃、電話が鳴り出した。こちらに来た頃は言葉が判らず、ポルトガル語や、たまにスペインからのスペイン語の電話が掛かって来ると、一種の恐怖感にとらわれたものだったが、独学の甲斐あってか、この頃では何ともなくなって来た。しかし話が細くなると半分ぐらいしか判らない。それは間違なく代理店の男の声で、船の錨地が変った事と工事が遅れ、完成は真夜中になるので、11時に別の艀溜りに来てほしいとの達絡だった。今日は日曜なので、一日中家に居ると思って昼頃から再三電話をよこしたのだ相だ。このところ、前日のホテルでの打合せも含め深夜の仕事が続く、この分だと帰宅は明け方になる事は明らかだ。

11時、作業服の入った鞄を下げ、タクシーで艀溜りに着く、間もなく知り合いの海運局長が自ら姿を現したのには驚いた。本船の損傷の重大性に鑑みサーベヤーと共に自ら応急修理の完成状態を確認し、出港許可を与えるのだ相だ。ランチで一時問、港のふところの一番奥に本船は脚一杯で停泊している。乗船前、局長はフリーボード・マークを確認。既に前線は通過して'満天の星空だ。作業服に着換え雨で濡れてつるつる滑る原木の上を船首楼の後端まで行き、一番艙に入る。もう憤れた為、容易に修理個所に近つく事が出来た。まだ溶接の煙が僅に残っていたが、溶接棒の残りや残材は既に掃除されて、指定した通りの応急修理が完了していた。最悪の環境で、良くここまで工事が出来たものだと感心した。もう浸水は無く、内部からFlat barによる二重張りが連統して施されており、タンク頂板から遊離していたブラケットも、二重張りにより一応、タンク頂板に固着きれていた。但し溶接はお世辞にも上等とは云えなかった。何如に優秀な溶接工でも、原木と外板の聞の狭い隙間に身をよじるような姿勢で作業を行うのであるから、100点満点の溶接を期待する方が無理であろう。要は肋骨下端がブラケットに取付けられた二重張りを介して、タンク頂板に固着されていれば応急修理としては充分なのである。

船長室に戻り、待っていた海運局長に応急修理は良好に行われた旨報告し、ガタガタのタイプで必要な書類を作成する、時計を見るともう1時を過ぎている。左舷はこれで当分は心配ないが、原木と外板との間に下に降りて行く隙間のない右舷の同じ場所は、現在は漏水はないが近寄れないので様子が判らない。




図3
 貨物が肋骨に及ぼす力



今後、海象、気象に充分注意して航海し、最終港で揚荷完了後、右舷側をも調査し、ドックに入れて完全修理を行う様、監督と船長に勧告した。彼等も勧告通りに処置する事を約し、サーベヤーは、懐しい例の色紙に最後の別れを告げ、局長と二人で船を去った。出帆は朝7時の由で、遠ざかる本船に手を振り、これからのビスケー湾の航海の無事を祈った。家に帰った時は、東の空は白みかけており、それは3月4日、月曜の早朝であった。

3.ビコ及びオンフルールで無事荷役完了

再び、ヨーロッパ大陸最西端のロカ岬を右舷に眺め、約200浬余りのビゴ迄の航海は平穏無事で、もはや、ビルジポンプでの排水作業の必要はない。ローマ時代からの古い港町で今は鰯の漁船で賑うビゴに入港、揚荷は少ないのですぐに終り、ピスケー湾の横断も事なきを得て、オンフルールで無事荷役も完了した。リスボンでの応急修理が明に効を秦し、船長もやっと肩の荷がおりた感じだった。それにしても、リスボンの連中はサーベヤーも含めて深夜まで良くやってくれたものだ、よそではなかなか今度の様に早くは進まないものだと、今迄、色々とトラブッタ例を思い出し、何のお礼もしなかった事が聊か気になった。

4. 再び船長は悩む

オンフルール到着前に、次の航海の指令が入っており、次航は、東独のウイスマル(Wismar)で4,700トンの塩化カリを積み、揚げ地は、大西洋を横断して、コロンビアのカルタヘナ(Cartagena)である。しかしその前に、リスボンでのサーベヤーの勧告通り、何処かのドックに入れて、応急修理箇所の完全修理を行わなければならない。今回の応急修理が効を秦し、一番艙の浸水は完全に止り、肋骨も補強され無事ビスケー湾を乗り切ったと云う安心感が、揚荷後の艙内の詳細点検を鈍らせたのではないかとの疑が持たれるが、兎に角、船内に浸水は無い、早急にドックを手配し、完全修理を行うのは、次航が終ってからでも遅くはないのではなかろうか、それでなくてもリスボンで一週間ロスをしてしまい、ここでドックをすれば、更に最低一週間を無駄にしてしまう。若しかすると、次航の予定がキャンセルされる可能性も強い。と云って、ドックを延して現状のままで中米のコロンビアまでの航海中、大西洋で若し、再び異状が起れば、今迄と違い処置が行える所としては、マデイラ諸島とアゾレスのポンタ・デルガダしか無く、それから先の広大な大西洋で孤立無援に陥ってしまう。船長は悩んだ、ドックを選ぶか、本杜からの命令に従ってウイスマル・カルタヘナを選ぶか?

今迄の無事な航海が逆目に出て、今度は、サーベヤーの勧告を一航海先に延すことにして、船長は強硬策を選んでしまった。これが竹内画伯の色紙を、スペイン西北部の典型的なリアス海岸に沈めてしまう原因となったのである。
 
5.悲劇は遂に起った

ウイスマルでの積荷が終り、西に向って出港、3月とは云え、バルト海はひどい寒さだ、2月に荷役を行ったアビジャンが恋しくなる。3月28日、キール湾に入ったところで、突然前方に係留作業中の船が迫ってきた。全速後進を掛けたが僅に間に合わず、本船船首が相手船の船尾に軽く接触してしまった。出帆早々の事故で、これからの長い航海の悪い前触れでなければと一抹の不安が船長の胸を掠めた。両船とも大した損傷はなく、文字通りかすり傷程度で済んだ事は幸だった。相手船はバラストでロッテに向うケミカル・タンカーであったが、若し危険物でも積んでおり、タンクに接触したら大ごとになるところで、船長は、ほっと胸を撫で下ろした。

その後、順調な航海が続き、再ぴビスケー湾にさしかかった頃、天侯は悪化して来た。船は大きく揺れ出し船首楼を越えた波が一番のポンツーンハッチに落込んで来る。船長室の例の色紙が床に倒れた。

4月2日、ビスケー湾を渡り切り大西洋も目の前になった頃、スペインのラコルーニヤの近くで突然と云っていいくらい船体は、以前とは逆に右舷に傾き始めた。傾斜は約5度だった。波と戦いながら大急ぎで調査したところ、大量の海水が一番艙になだれ込んでいることが判った。今度の貨物は前航の木材と違って塩化カリである為、ビルジの排水も思う様にいかない。それよりも浸水の量が多すぎる。

意を決した船長は、難を避ける為ラコルーニヤに向け変針、関係方面に事態を報告、エルフェロールの造船所のドックの手配を依頼した。エルフェロールには、スペインの海軍工廠バサン(BAZAN)があり、その他に50万トンのULCCも建造出来るアスタノ(ASTANO)造船所もある。

悪戦苦闘の末、やっとヘルクレスの塔から東、約6マイルのアレス湾に到着、投錨したが船の傾斜は直らず徐々に増えて行く。急を知った現地の代理店が35馬力のポンプを段取りしてくれたので、本船のポンプと一緒に排水作業が続けられた。しかし、作業は一こうに好転せず、沈没の危険は刻一刻と迫って来た。船長は沈没を避ける唯一の方法は、前進して浅瀬に乗り揚げるべきだと判断、錨を切りフル・アヘッドを考えたが時、既に遅く、アレス湾の水深1〜20の海域に右舷を下にして沈没してしまった。時に4月2日、9:30であった。

乗組員は漁船に救出され事なきを得たのが不幸中の幸であった。かくして竹内栖鳳画伯の色紙は船長室の片隅で、アレス湾の藻屑と消えてしまった。

サーベヤーの勧告通り、オンフルールで木材揚荷の後、ドックに入れるべきだったと悔んでも後の祭りになってしまった。




図4 推定沈没水域




6.沈没の推定原因

伝えられるところによれば、一番艙右舷外板の亀裂は長さ1mで、幅3僂粒口が生じていたと言われる。また、事故を報じたロイドリストによれば、スペインの港湾当局の談として、本船は海底の岩に接触したのが原因であろうと推定している。ただ、おかしいことはロイドリストでは、浸水が起きたのが4月2日、ラコルーニヤから210マイルの海域となっており、その附近に岩礁があるかどうか、また200マイルの海域から、苦労してラコルーニヤに到着、沈没したのが同日の19:30であるのも速度からしてちょっと腑に落ちない。

リスボンでの左舷の状況と同様、右舷側も、一番艙の肋骨下端のブラケットは局部的な腐触により、タンク頂板から一部外れかけており、この時点では外板に亀裂は発生していなかったが、遅かれ早かれ、左舷同様、外板が割れる一歩手前の状態だったのではなかろうか。左舷の損膓の場合、それ迄の航海が平穏であった為、外板の亀裂は肋骨毎に5冂度の小さなものであったが、時化られた今航の場合、今まで頑張っていた右舷のブラケットが、数個所で一時に外れ、外板もそれと同時に1mもの大亀裂に至ったものと推定しても誤はないのではなかろうか。恐らく木材揚荷後の船内点検の際、ブラケットの下端をハンマーで叩いて調べたら、ブラケットが危険を状態である事が判り、船長は即座にドックを決定したのではなかろうか。

肋骨下部の損傷については後でもう一度取上げることとするが、空艙の場合でも掃除が悪ければ発見は難しく、悪化すれば、船の命取りになる癌の様なものである。違うところは、早期発見して処置すれば100% 治ることである。この部分は、船令の如何に拘らず、空艙時には慎重に調査しておく必要がある。

また、一般に片舷に損傷があれば、反対舷にも同様な損傷が潜んでいる可能性が多いので、片舷のみ修理して安心のあまり反対舷の調査をおろそかにしてはならない。



追記:
本稿を航海ジャーナルに掲載したときは本船の船名は伏せておいたが、20年以上前の事件であるので、敢えて船名などを公開することとする。
 
事故当時の船名 :VIKING
新造時の船名 :太平丸
事故当時の船主 :Zizelbay Shipping
新造時の船主 :太平海運
建造造船所 :尾道造船、    
船級 :NK
起工 :10/9/1969
進水 :3/2/1970
完成 :30/3/1970
主要寸法 :90.00 x 15.60 x 8.22 – 6.65、 2,999,92総トン
主機 :阪神 3,000馬力 x 255 r/p
最高速力 :15.281 ノット




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