30.甲板(3)


I. 船体損傷に関する一般的な事柄


3 甲板(Deck)その3

3.3 甲板の損傷

3.3.1 亀裂(3)

1) 亀裂の原因

(1)低温脆性
 冷蔵運搬船特有の損傷で,冷蔵艙内の温度が−10℃位いでは,亀裂発生の例は少ないが−30℃以下になると頻度も多くなり,破面に脆性破面を示すヘリンボーン・バターンが認められることから,亀裂は脆性破壊によるものであることは明白である。

(2)熱応力
 艙内が冷やされると,当然のことながら,鋼で組み立てている船体構造部材は収縮しようとする。しかし,船体は溶接によりガッチリと固着されており,鉄道のレールの継目のような逃げがないため,膨脹収縮が拘束されている中で,温度が変化すると部材に熱応力が生じ,低温になれば,引張り応力が内在されることになる。この応力は,次の式で表わされる。

σ = λE/l = Eα(t − t0)
E はヤング率
λ は伸縮量
l 最初の長さ
α は線膨脹率
(t − t0)は温度差

鋼材の場合, E=21000kg/㎟、α=11.5×10-6
20℃の艙内が−40℃に冷やされたとして温度差を60℃とすれば,その時の応力は次のようになる

σ=21000×11.5×10−6 ×60 = 14.5kg/㎟

 第二甲板のガーダーを考えるとき,そこには甲板上の貨物の重量を受けているので,そのための応力が生じており,これに14.5kg/㎟ の熱応力が追加されることになるので,F丸のガーダーのように,溶接が不完全で,必要な面積の半分しか固着されていないとすると,当然その面で引張りにより破断することになる。

(3)工作不良
 溶接不良部が内在していれば,接着が不十分であるため,低温による熱応力が余分に加わらなくても切断することになる。D丸の二重張りの亀裂は工作不良によるものである。

(4)設計不良
 ハッチの隅で,デッキに丸味のない設計になっていれば,応力集中により,デッキが割れ易いことは既に述べたが,F丸の場合,亀裂の発端となったガーダーは箱型で設計されていたため,箱の内部に人が入って溶接することができず,不完全な片面溶接が強いられることになる。最近は,冷蔵運搬船の場合,第1図のような箱型のガーダーは止めてオープン型のガーダーとするよう要求されている。


第1図 Box girderとOpen sectionのGirder


2) 亀裂防止の対策

(1)鋼甲板をやめる
下層甲板の鋼甲板をやめ,甲板は梁とガーダーのみとし,昔の船のように,梁の上に木甲板を敷けば,甲板の亀裂は生じない。ただし,ガーダーを木製にすることは強度上不可能なので,鋼製のガーダーの継手には亀裂発生の可能性が残る。

(2)下層甲板は縦強度に入れない
下層甲板は,船体中央の断面係数を算出する際,中立軸に近いので,縦強度への寄与は少ないが,中立軸から離れた位置の下層甲板は,縦強度に寄与することになる.この場合でも,冷蔵船では,下層甲板は無いものとして,船体縦強度を決めた方が安全である。

(3)ガーダーの端部をフリーにする
温度差によるガーダーの膨脹収縮が自由に行われるよう,ガーダー端部は溶接で拘束しないで,鉄道のレールのようにボルトで固着すると熱応力の心配はなくなる。橋桁で見られるように桁の端部が自由に滑るようにするのも一つの方法と考えられる。この場合,値段の高い低温用鋼材は使用しなくても良いことになる。

(4)溶接が容易に行える設計にする
溶接が困難な設計になっていれば,どうしても溶接部に不良個所が生じるので,前述のように,箱型のガーダーなどは使用しない設計とする。

(5)非破壊検査を増やす
現場溶接は,地上の溶接と違って,作業環境が悪く,溶接不良が生じ易い。したがって,冷蔵運搬船の下層甲板においては,現場溶接部のX線検査を増し,溶接不良部が発見されたら直ちに手直しをし,カラーチェックをも併用し,不良部を残さないよう注意する。

(6)材料を誤らないようにする
低温用鋼材といっても,外見上は普通の鋼材と同じで区別がつかない。入荷した時点で,鋼材の隅に打刻してある低温用鋼材のマークを確認し,切断前にペンキなどで低温材であることが判るようなマークをつけ,普通鋼材と混用しないよう手を打っておく。また,溶接棒も,それに合った棒を使用する。

3) 亀裂が発生した場合の応急処置

 甲板が脆性破壊により割れる場合,大音響を発するのが普通で,艙内を調査して,甲板に大亀裂が発見されたときの応急対策は,次のとおりである。

(1)亀裂の端部にストップ・ホールをあける、これは,ドリルで直径25伉度とする。ガスで孔をあけると,孔の周囲がギザギザになり却って亀裂を助長する可能性があり、好ましくない。
(2)艙口側部のガーダーを含めた甲板の大亀裂の場合,甲板が下るので,応急の柱を立て,垂下したガーダーの支えとする。この柱は艙内の荷ぐりの邪魔になるが止むを得ない。鋼材配置図を調べて二重底内部の側桁板と実体肋板の交叉した位置に立てる。柱の上下は,必ずしも溶接する必要はない、柱は細いパイプを使用すると,甲板の荷重を受けて座屈するので,ハッチ・コーナーに設けられている柱と同程度の寸法とする。

 以上が応急対策で、亀裂はF丸のように無理して溶接しなくても良い。ただし、修理地まで回航する間に亀裂が進行する可能性もあり得るので、亀裂部には貨物を積まず航海中、亀裂の進展の有無を確認出来るよう、人が通れる程度の範囲をあけておく。
 過去の例から見て,冷蔵運搬船の下層甲板の亀裂は,外板の手前,最少300个阿蕕い琉銘屬濃澆泙,外板までは伸びないのが普通である。航海中随時亀裂の様子を観察し,もし,亀裂が進行していることが判ったときは,さらに,亀裂の先端にストップ・ホールをあける。上甲板の亀裂と違って,下層甲板の亀裂は,ホギング,サギングによる縦強度の影響は少ないので,前記の応急処置を講じておけば,貨物の積付けについては,前述のように,船体をサギングの状態(亀裂の生じた甲板が上甲板に近い場合)またはホギングの状態(亀裂の生じた甲板が,二重底頂板に近い場合)に保つよう神経をつかわなくても良い。甲板の亀裂に続いて,それ以外の損傷を取り上げてみる。

3.3.2 陥没,垂下

 甲板は外板と違って凹損はあまりうけない。外板の凹入に相当するものは,甲板の垂下,陥没であるといえる。垂下と陥没の区別は明らかでないが,貨物艙の部分で甲板が全体的に下に重れ下った状態を垂下と呼び,波の打込みや,荷物の荷重の集中により甲板の一部が凹んだ状態を陥没と呼んでいるようである。いずれにしても,これらは,甲板に異常な荷重が加わった結果で,荷重としては貨物と,暴露甲板では波浪の衝撃がある。ここでは,波浪をもろに受ける暴露甲板と艙内貨物の重量を支える下層甲板に分け,陥没,垂下の事故例を取り上げてみる。

3.3.2.1 昔の船の損傷

(1) 咸臨丸の場合

 幕末の万延元年(1860年)幕府の命により勝海舟が艦長となり,日本人の手で,初て、 太平洋を横断した咸臨丸は,1857年オランンダで建造された,長さ165フィート(49.5m),幅24フィート(7.2m)、約250トンの3本マストの木造船である、100馬力の蒸気機関を備え、速力は6ノットとされている。1月13目,木村摂津守を提督とし,ジョン万次郎,福沢諭吉らも含め日本人96名と,日本近海で難破した米国の測量艦ファモニア・クーパの艦長J. M. Brock大尉以下11名の将兵.合計107名を乗せ,品川を出帆,横浜で石炭を積み,最初の3日間は機走,その後は帆走にてサンフランシスコに向かったといわれている。無事太平洋を横断,2月22日サンフランシスコに到着しているが,途中,運航に当っては,米国の将兵に大分世話になったようである。船尾に日の丸をなびかせて大波の中を難航している同艦乗組員鈴藤勇次郎の描いた絵は有名である。


写真1 威臨丸の模型(船の科学館提供)


 帰途は3月19日にサンフランシスコを出て,5月5日浦賀に'帰港,行きは40目,帰りは47目ということになる(なお,サンフランシスコ着および出帆の日は資料により1〜2日違っている。因みに、1962年5月12日,日本を出帆し、ヨットによる単独太平洋横断に成功した堀江謙一のマーメイドは大圏航路を通り,93目かかって,8月11日サンフランシスコに到着している。
 咸臨丸の往航はかなりな時化に遭い日本に帰るまでの間,冬期太平洋で,何等かの損傷.波浪による暴露甲板上の事故があったのではないかと思われるが,損傷に関する記載は見当らないしただ,帰国した頃は船体,機関とも修理を要する点が多かったとされている。 船齢が比較的新しかったことと,今にしてみれば,小型船であったため,船が波に乗ってしまい,大浪で甲板を陥没させられるようなことはなかったものと考えられる、本船はその後,機関が撤去され帆船となり,明治維新の際,榎本武揚に率いられ北海道に行き,五稜郭の戦に従うことになったが,途中荒天で漂流し清水港で官軍に捕獲され,政府の所有となり明治3年(1871)年、大蔵省から開拓使に移管されている。以後北海道沿岸の物資輸送に従事中.1871年9月19日、小樽に向かう途中で座礁全損したと伝えられている。
 昔の代表的な船に就いて波浪による甲板の損傷を調べて見たが、見当たらない。いずれにしても、昔の木造小型船では大波を食らっても甲板に重大な損傷は生じないようである。

(2) Santa Mariaの場合

 コロンブス航海誌によると,新大陸発見に挑んだ,旗艦ナウ型と呼ばれた“Santa Maria"長さ26m ,幅9.9m, 約100トン,乗員40名と,Carave1型と呼ばれた僚船“Niňa",“Pinta" (何れも長さ21m, 幅6.9m, 深さ2.7m)、乗員は各々24名,26名で,1492年8月3日,スペイン南部のウエルバ(Huelva)のPalos de la Frontera港を出帆した。


写真2 コロンブスの艦隊
コロンブスの旗艦 Sata Maria(右端,1492年12月25日バハマにおいて座洲し廃棄された。Nau型と呼ばれている)小さい2隻はCarave1型と呼ばれ,真中は Pinta (大西洋横断の前にカナリヤ諸島のゴメラで帆が改造され,横帆になっている)、左端はNiňa で,コロンプスはSata Maria が座洲したのでNiňa に移った。この模型はLas PalmasのCasa de Co1nに陳列されている。



写真3 コロンブスが船出したところ
Huelvaの入口Palos de la Frontera にある大きなコロンブスの像



第2図 Casa de Co1n (コロンの家)のパンフレット
“カナリヤの援助なくしてコロンブスの新大陸発見はありえなかった”と記入してある。



第3図 カナリヤにおける Pinta の改造



写真4 コロンブスの家(Casa de Co1on)



写真 5現在のウエルバ港



第4図 スペイン南西部とウエルバ
コロンブスが新大陸を求めて出帆したPalos de 1a Fronteraraは, Huelva市の郊外,Tinto河めほとりにあり,現在,コロンブスの大きな石像が立っている。当時,新大陸への基地になっており,メキシコを征服したCortēsもここから1528年出帆している。現在,港は泥にうまってしまっている。Huelva市はTinto河とOdiel河に挾まれた人口約10万のスペインでは4番目の港町である。


 3日後の8月6目以降“Pinta"の舵が再三外れ,船内に漏水があったとされている。詳細は判らないが,舵については,舵針が外れたのではないかと想像される。8月9日やっとカナリヤ諾島テネリフェの西,ゴメラ島 (Gomera) に着き,そこで1ヵ月近くかかって Pinta の修理と帆の改造が行われている。コロンブス(スペイン語ではコロン)は第4次航海の前1502年ラスパルマスに住んでいたが,この時の家が今でもCasa de Co1ōnという名で博物館として保存されており,彼が使用した海図,アストロラーベ,コードラントなどの航海器具等が展示されている。
 話は,第一次航海に戻るが,10月12日、バハマ諸島を発見,各地の島に金を求めて航行を続け,ある島で Niňa の前檣に使う大きな木材を切り出している。このことはNiňa の前檣がかなり傷んでいたためと思われる。前檣が何時,何処で修理されたかは,記録がない。12月25目,クリスマスの日に若い水夫の不注意で,旗艦Santa Maria が座洲,離洲には成功せず,肋材の継目が割れたと記録されている。本船はここで廃棄されることになるが,この間の事情を“コロンブス航海誌"(岩波文庫)より引用する。

“提督は,潮が引いて本船が傾いて行くのを目撃して,他に方法はないかと考え,マストを切落し,船から持出せる物を皆投げ降すように命じて,そこから船を脱出させられるかどうかを試みてみた。しかし依然として潮はひく一方だったので救いようがなかった。それで波がほとんどなかったのを幸い,船体を海の方へ傾けたところ,肋材の継目が割れはしたが本船そのものは無事であった。”

 ここで, Santa Maria とNiňa の乗組員のうち、39名が島に残り,コロンブスはNiňa に乗り移ることになる。なお,もう1隻のPinta は,既に11月21目,コロンブスに反抗して単独行動をとっていたが,1月6目,再会し, Niňa の指揮下に入ることになる。スペインを出発してから,ずっと海象は平穏であったが,2隻とも徐々に浸水が進み,1月7目,浸水個所の修理が行われている。浸水は竜骨部分からで,出発前, Palos港での整備の際,墳隙工が船底のコーキングを十分に行わなかったためとされている。
 1月16目,帰国の途につく時点でも浸水は止らず,2月14目に大暴風雨に遭ったときは,底荷がなくなったことによるトップ・ヘビーも加わって,非常に危険な状態に見まわれている。荒海の中で,空の樽に海水を張り重心を下げる努力が連目続けられ,2月24日,やっと辿りついたポルトガル領のアゾレスで,底荷の石が積み込まれている。帰途は,コロンブスの将来の運命を暗示するかのような難航が続き,3月3目リスボンに着く1日前の突風では,帆が全部破れ, 檣だけで波にもまれた航海が続いたとされている。リスボン経由で,Pa1os港に帰り着いたのは3月15日であった。
 彼は,この後3回の航海を行っているが,彼を援助した,イサベラ女王の病気もあり,不遇な晩年を送り,バリヤードで,54歳の波澗に満ちた一生を終わっている、、当時のスペインの4つの王国,レオン,カスティリヤ,ナバラおよびアラゴンを象徴した4人の像に担がれた彼の棺は,セビリヤの中心にあるカテドラルの一室に安置されている。コロンブスは,衆知のとおり,イタリヤ人であるが,ナポレオンがフランスの英雄であるように,スペインの英雄として,マドリをはじめ,大都会には必ず,コロンブスを記念した広場、Plaza de Co1ónやコロン通りがある。


写真6 コロンブスの棺
セビリヤのCathedralにあるコロンブスの棺


(3) マゼランの場合

 余談が長くなるが,ついでに,世界一周をしたマゼラン(正しくはFerńade Magalhāes,マガリヤンシで,マゼランはその英語)の艦隊につき簡単に取り上げてみることとする。彼がポルトガル人であることはあまり知られていないが,1519年8月10目,75トンから120トンの船5隻265名を率いて,セビリヤを出帆した。Santiago (75トン) がブラジル沿岸で最初に難破、 San Antonio (120トン)はマゼラン海峡を前にして脱走,残る3隻が太平洋を西に向かって航行を続け,フィリピンに到達したのは,1520年3月6日であった。ここで,マゼランは土着民との戦で殺され,以降はデルカノが指揮を取ることになる。残った3隻のうちConcepcion (90トン)の漏水がひどくなったため廃却,残りは旗艦のTrinidad (120トン)とVitoria(85トン)のみとなり,乗員も壊血病と飢餓などにより115人に減っていたといわれる。
 この後1521年になりTrinidadの外板に亀裂が入り航行不能となり、Vitoria の1隻だけが,故国スペインに帰ったのは,1522年9月4目,生存者は僅か18名,帆は破れ, 檣は折れ,漏水が甚だしく,まさに幽霊船そのものであったと言われている。この場合も波浪による甲板の損傷例はない。

(4) 木造帆船の泣き所

 以上の例から考えると,当時の帆船の泣きどころは,舵の故障、檣の切損,外板の漏水ということになる。木造船であるため,凹損はしない代りに,外板の破損,漏水,航行不能という結果につながるようである。この他,錨の喪失、帆の破損,が考えられるが,最大の命とりは漏水で,コロンブスのNinaの例にもあるように,竜骨部からの漏水が多かったようである。当時の船の構造は,第4図のようになっていたと考えられ、keelとそれに取り付けられる外板(Garboard strake)とは図のように挿め込み構造になっており.水密は填隙(Cau1king)によって保たれていた。


第5図 船底構造



第6図 木造帆船の中央断面図
※クリックすると拡大します


 このCau1kingは損傷の修理方法の項で取り上げた鋲構造部の水止めとは違い,板と板の間にオーカム(古い麻ロープをほぐしタールに浸したもの)を詰め,コーキング・マレットで打ち込み,熱したタールを流し込んで水を止めることをいい,現在でも,客船などで,鋼甲板を木甲板で覆う場合に採用されている。当時の船は,keelとGarboard strakeの取合が,板相互の接手と違って単純な構造ではなかったため、Cau1kingが緩み易く,船には必ず填隙士(Cau1ker,スペイン語,ポルトガル語ではCa1afate) が乗っており,しばしば船底におりて漏水を止める仕事をしていたそうであるこれは,大工(Carpenter,スペイン語,ポルトガル語ではCarpinteiro)とは違い.本によっては,前者を船大工,後者を大工と訳しているものがあるが,前者は填隙士または填隙工と訳すべきである、帆船時代には,この他に,樽の修理をする樽大工Cooperage,ポルトガル語では(Tonelaria)や帆の修理をする裁縫工が乗っていた。暗く,暑く,じめじめした船底で,揺れながら行う填隙作業は困難を極め,いくら手をほどこしても漏水は止らず,かつて、kee1とGarboard strakeとの隙問はdevi1(悪魔)と呼ばれていたそうである。


第7図 船底の填隙作業


 脱線のついでに,漏水したビルジの排出がどのようにして行われたかを調べてみたが,上甲板上にはポンプらしいものは見当らず,良く判らない。桶の先にロープをつけて汲みあげたのか,ポンプが既に使われていたのかどちらかによるものと思われる。
 Cutty Sarkの時代になると檣の近くにビルジポンプが設けられている。,第8,9図に示す装置によっていたものと考えられる。


写真7 Cutty Sark のビルジ・ポンプ
檣の後の大きな円いハンドルのついているのがビルジ・ポンプとされている。後の船室はBos'n、Carpenter、Sail maker及びCookの部屋である。



第8図 革袋によるビルジ・ポンプ



第9図 丸木を刳り貫いて作ったビルジ・ポンプ


 第8図は,バルチック海の小型船に使われたもので,棒の先についた革袋で排水を行うものである。bi!geの語原は,ラテン語のbu1ga(革袋)から来ているといわれるが,関連があるのかも知れない。

追記: Devil, Caulk, Oakumに就いて
“The Oxford Companion to Ships & the Sea"に上記Devi1,Cau1k,Oakumの説明が出ているので,参考までに転載する。
DEVIL, the caulker's name for the *seam in the upper deck planking next to a ship's waterways. No doubt they gave it that name as there was very little space to get at this seam with a caulking iron, making it a particularly difficult and awkward job. This is the origin of the saying 'Between the devil and the deep blue sea', since there is only the thickness of the ship's hull planking between this seam and the sea. It is also the name given by caulkers to the *garboard seam, which was always, when a ship was * careened, not only the most awkward to get at but usually the wettest and most difficult to keep above water and caulk. See also CAULK, TO, 'DEVIL TO PAY'.
'DEVIL TO PAY', an old seafaring term meaning something very difficult or awkward. It originates from the name given by caulkers to the *garboard *seam in a ship's hull. which was universally known as the *devil, as it was difficult to * pay in the * oakum and hammer it home. 'Devil to pay and no pitch hot', a situation so difficult that no means of solving it is immediately apparant. See CAULK. To.
CAULK, to, the operation of driving, with a caulking iron, *oakum rope *junk into the * seams of a ship's wooden deck or sides in order to render them impervious to water. After the oakum is driven in hard, the gap between the planks is filled with hot pitch or some other composition to prevent the oakum from rotting through contact with water. OAKUM, tarred hemp or manila (tow) fibres made from old and condemned ropes which have been unpicked, used for *caulking the seams of the decks and sides of a wooden ship in order to make them watertight. It was rammed down between the seams with a caulking iron and a heavy hammer, and then held in position with hot pitch poured along the seams. The unpicking of oakum for naval use was the principal labour of the old workhouses to which the old and infirm were condemned when they were no longer able to support themselves by their labour. It was also an old naval punishment, every man condemned to cells on board ship having to unpick a pound of oakum daily. It was a tedious and slow process, and very hard on fingers and thumbs.

主要参考文献
1. The Lore of Ships、
3. 大航海時代のイベリヤ(中公新書)飯塚一郎
5. 氷川清話(角川文庫)勝海舟
7. 海の英語 (研究杜) 佐波宜平
9. Spain(Michelin)
11. A11 Sevil1a (Escudo de Oro)
2. 大航海時代夜話(岩波) 井沢実、
4. 航海術 (中公新書) 茂在寅男、
6.コロンブス航海誌 (岩波文庫)
8. 船(法大出版局)須藤利一
10. A11 Canarias (Escudo de Oro)
12. GranCanaria (Coleccion Hispanica)
   M. Gonza1ez Sosa




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