二度も撃沈された悲運の常陸丸 (1)

I. 鋲構造の船と造船奨励法


 “常陸丸”第一世は,日露戦争の時に玄界灘でロシヤ浦塩艦隊に,二世は,第1次大戦中インド洋でドイツ仮想巡洋艦に撃沈されました。この二隻の中で,当時としては画期的な大型船であった初代“常陸丸”について取り上げて見ます。国産初の大型機関として本船用に製造された,三段膨張式蒸気機関とボイラーに就いては,ここでは割愛します。

1. 大型船建造の幕開け

1.1 木造船からの脱皮

 明治維新以後、日本が本格的な造船に取り組んだ頃は,欧州では既に,従来の木造船から、骨は鉄、外板と甲板は木材を使った木鉄交造船,それに続いた鉄船の時代を経て,鋼船に移行していた頃でした。従って、日本は.木船から二段飛びをして鋼船時代に飛び込んだことになります。と言っても日本では全然鉄船が建造されなかったわけではありません。最初の鉄船は,明治4年に新潟税関が佐渡の夷港で建造した“新潟丸”,64トンとされています、その翌年,大阪で121トンの貨客船“興讃丸”が建造され,明治6年には東京の築地で'建造された“神戸丸”が251トン,14年に徳島で108トンの“効鐵丸”が建造され、その後は鉄船は建造されていないとされています。これらの船に就いては,詳しい記録がなく,“佐渡丸の場合,図面と材料は外国から購人し、佐渡ではただ細み立てられただけだといとも簡単に書かれています。
 しかし,例え小型船でもプラモデルとは違って,どのようにして板曲げ,鋲打ち,水止めなどがなされたのかなど,詳しいことは全然分かっておりません。
 新潟税関に古文書が残っていないか,佐渡の図書館など一度調べて見たいものです。なお,現在は,世界中探しても鉄製の船は廃却されてしまっており、殆ど見ることはできませんが,.束京商船大学に重要文化財として保存されている,明治7年に英国.グラスゴーのRobe1t Napier & Son社で建造“明治丸”,996トンは現在、目にすることのできる数少ない鉄船です。立派に復原されており.第一,第三土曜日に公開されていますので一度ご覧になって下さい。


写真1 明治丸の外観



写真2 明治丸の腐食した外板


1.2 常陸丸の建造の経緯(日本郵船と三菱の大英断)

 明治15年,政府の後押しで共同運輸会社が設立され.三菱会社と共倒れになるほどの熾烈な市場争いが続いていましたが,明治18年両社は合併して,日本郵船株式会社が誕生しました。大阪商船会社(OSK)は,設立されたばかりだったので、NYKはトン数で日本の汽船の77%を占める独占会社となり,外国船会社との競争にも勝ち抜き,明治26年にインド,29年には豪州,北米シャトル航路を開いていました。次は念願の欧州航路と言うことになり,月2回の配船を目指して、12隻の当時としては大型の 6,000トン級の貨客船の整備計画が立てられました。最初は4週一回の配船で6隻が計画されましたが、最終的に2週一回に増強され、1,020万円を掛けて12隻を建造することに決りました。特定の航路のために船が建造されるのは日本では初めてのことです。.当時、日本では2,000トン以上の商船の建造実績がなく、船価も高くつくため, 総て英国の造船所に発注する予定でした。また,欧州で建造された場合,日本に回航する際に貨物が取れ運賃収入があるという利点もありました。しかし,当時,日本郵船の取締役で欧州航路計画の中心人物であった荘田平五郎の決断で1隻を三菱に発注することが決りました。(後でもう1隻,予備の船腹として同型の“阿波丸”が追加建造された。)
 三菱はそれまでに鋼船としては,大阪商船向けに約650トンの“筑後川丸”クラスの3隻を明治23年に建造し、最大の船は,明治28年に進水した“須磨丸”1,560トン1隻のみでした。この船は、初めて二重底をもった船でした。それまでは単底の船ばかりだったので、二重底の組み立てはさぞ大変だったと思われます。“常陸丸”(三菱長崎99番船)が起工された明治29年12月の時点では,鋼船で2,692トンの“立神丸”と1,522トンの“宮島丸”が、今までの小さな船台でまだ建造中でした。造船所としては,それまでの3倍近くの大型船を英国と同じ船価(822,000円)で10万円位の損を覚悟で引き受けていますが、船主にとっても造船所にとっても大冒険でした。

注)沈没により、日本郵船は明治37年6月29日の重役会で912,000円の戦時損失保証金を政府に請求している。


第1図 “常陸丸”建造前の三菱長崎の新造船
( )内は船番号、山高五郎氏筆


1.3 要目と構造

本船の要目は次の通りです。

L x B x D  : 445’ – 0”×49' -2"× 33” –6", (135.60×14.99×10.21m)
6,172 G/T, 2層甲板、6 hold, 2機2軸,
主機 :3段膨張型蒸気機関 2基、
気筒径(高圧)20", (中圧) 331.5” (低圧) 56“
(135.6 × 851 × 1,422mm)
行程 9" (228.6mm) 
出力 3.847 IHP×2 (ロイドの Register Bookでは549 NHP)
ボイラー1 :
単面 13’-3”×10-0' (4.04×3.05) 2鑵
両面 13’-3”×17-0' (4.04×3.05) 2鑵
蒸気圧力200ポンド(14kg/㎠)

なお。ホイラーに就いては,ある文献に“常陸丸”のボイラーとして,片面ボイラーが3鑵並んだ写真が紹介されていますが,ボイラーは2基ずつであることと,径が4.04mのボイラーを3鑵、並べることは船の幅から考えても無理と思われ,これらは別の船のボイラーと考えられます。

速力 : 14.18kt,
定員 : 一等 29名、 二等 20名  三等 124名
船級 : ロイド+100 A1

注)この時代、まだ帝国海事協会(現日本海事協会)は存在していなかった。殆どの外航船はロイドの船級を取っていた。

竣工 : 明治31年(1898)8月16日


写真3 常陸丸のボイラー
“三菱長崎の百年”に掲載されているが別の船のものと考えられる



第2図 “常陸丸”一般配置図


1.3.2 船体構造

 船体構造は横肋骨構造で、全通2層甲板ですが.最前部と最後部の貨物艙は部分的に第3甲板が設けられています。船側は帆船の名残として僅かにカーブしたタンブルフォームになっており,同じ高さの二重底が機関室、ボイラー室を通じて全通しており当時の船がみなそうであったようボイラー室と機関室は隔壁で仕切られています。外見上はデリックを兼ねたマストが前後2本ずつ4本立てられているのが目立ちます。4本もマストを持った汽船は珍しく“4本マストの巨大船" と歌にもなったとされています。本船は有桿錨が備えられており,図面から分かるように船首楼には錨格納用のAnchor deckが両舷にあるのも特徴の一つです。中央断面図は第3図の通りです。なお、二番船 ”阿波丸“及び二世の”常陸丸“は 4本マストを止めて、短いデリックポストとし、2本のマストに変更されています。”常陸丸“として2本マストの写真が掲載されている文献がありますが、これは二代目です。


第3図 常陸丸の中央断面図
想像を交えて描いたもので、外板の内外張りを強調した。左が機関室、右はボイラー室である。



第4図 常陸丸の二番船“阿波丸”と“常陸丸”二世
(山高五郎筆)
上が“阿波丸”で下が“加賀丸”(S.123),”伊予丸“(S.125)、 ”常陸丸“二世(S.188)である。外形は殆ど同じ。


1.4 建造過程

 “常陸丸”(99番船)は前記の通り明治29年12月21日に起工されていますが,この時点で英国のグラスゴーにあった、David Wil1iam Henderson 造船所に発注された、一番船“神奈川丸”が同じ月の29日に引渡されています。“常陸丸”はこの“神奈川丸”同じ仕様で,総ての図面と材料は英国から輪入されました。三菱が最初に取り掛かったのは、技術者、工員の英国への派遣で、大型船建造の技術習得と英国からの技術指導者の派遣要請でした。一方、現場では船台の拡張工事、引渡し前に入渠させるドックの延長、従来の100トンクレーンに代わって150トンの電動クレーンの設置,各工場拡張など、出血受注にもかかわらず大規模な資本投下が行われています。
 写真6から分かる様に、当時の船台は割立と称する櫓を船体の全長にわたって立て足揚板をのせ,荒縄で縛っただけのものでした。

1.4.1 昔の建造方式

1) 起工

建造方式は、今のブロック建造とは違って、第5図のように先ずキールを並べて鋲でつなぐことから始まりました。起工のことをKee1 Layと呼ぶのはこの名残で、この時に船主、造船所の主だった方々が現場に出席し、神主のお祓いの後、最初のキールを繋ぐ鋲が打たれます。キールが順次前後に延びていく過程においてA, B, Cの順に船底外板が鋲接され、船台全面に船底外板が敷き詰められます。
 その後、二重底内部のSo1id floor, Open floor, Girderが一つずつ取り付けられ,その上に二重底内底板を張って.二重底構造が全長にわたって完成します。まだ燃料は石炭だったので、配管はバラストとビルジ管のみで、貨物艙内を通したか、先行艤装の走りとして内底板を張る前にタンク内を通したものかは分かりませんが、多分、隔壁弁を設けて貨物艙内を通したと思われます。


写真4 “秩父丸”の船底


2) 肋骨建て揃え

 次いで、肋骨が一本一本立てられます。船尾から船首まで総ての肋骨が立ち上がった状態は、肋骨建て揃えと呼ばれ、建造の第二段階が終わったこととして、祝宴が開かれ建造費の一部が船主から造船所に支払われることになっていました。この状態は、丁度、両舷に巨大な櫛が立てられている格好です。


写真5 “秩父丸”の肋骨

この後で船側外板が一枚一枚肋骨に張り付けられます。まだ、肋骨に段をつける(一般に“背切る”Joggleと呼ばれていた)機械が無かった様で“常陸丸”の外板は内外張りでした。
 この場合、外板(そと板)と肋骨との間には板厚に相当する隙間が出て外板と肋骨との固着が出来ないので、短冊型の目板(ライナー)を挟んで肋骨、目板、外板の三枚締めが行われていました。このため、目板の分だけ船殻重量が増えることになります。鋲時代の外板の張り方は第6図を参照して下さい。
 当時の船の外板は一番左の方法で取り付けられていました。骨を背切る機械が出来た、明治後期からは骨を背切った一番右側の内外張りが普通になったようです。


第5図 昔の建造方法



第6図 外板の張り方


3) 進水まで

 既に船体の全長にわたり割立てが立ち上げられており、外板が一枚一枚取り付けられていきます。その作業に応じて甲板梁、桁、隔壁が取り付けられ、最終的にデッキが張られて船体工事は終わり、進水の運びになります。

1.4.2 “常陸丸”の場合

 建造工事は順調に進み,肋骨も建て揃い,外板の取り付けが殆ど終わった明治30年9月,起工後9ケ月になりますが,常陸丸の文献には必ず出ている有名な事件が起こりました。それまで検査を担当していたロイドの検査員Mr. Robertsonが突然鋲の状態が悪いとして,ロイドの船級は与えられないと言いだしました。三菱では再度60万本(外板の鋲だけでは30万本ぐらいではないかと推定され60万と言うのは誇張と思われる)もの鋲を再度慎重に検査し,疑わしい鋲は打ち替えて完壁な状態に手直しをしましたが,彼は頑として聞く耳を持たずロイドの船級を与えることを拒否しました。船主との契約でロイドの船級を取ることが条件なので造船所は途方にくれてしまいました。ところで,各船級協会の規則には,「検査員の勧告に対する提訴」と言う条項があります。この頃のロイド規則が見当たりませんでしたが、明治44年版(1911)では該当する条項は次のようになっています。

“Appea1 from Surveyor's Recommendations.-------- Interested parties, considering the recommendations of the Society’s Surveyors as to the construction or repair of a vessel, to be in any case unnecessary or unreasonable, are entitled to appeal to the Committee, who will direct a special to be held ; but should be the opinion of the Surveyor be confirmed by the Committee, the expense of such special survey is to be paied by the party appealing.”

 和文の規則では「検査員の勧告に対する提訴------協会検査員の勧告事項が,不必要あるいは不合理と考えられる場合には,委員会に提訴することができる。委員会は,これに対して,特別の調査を指示する。」
 三菱ではこの条項により,鋲検査に就いてロイドの本部に提訴することにしました。直ちに,ロンドンより,Mr. J. Stanburyが長崎に調査に来て,足場の上を歩いて検査した結果,99番船の外板の工事には不具合はないことを認め,工事は再開されました。Mr. Robertsは即座に罷免されたと言われています。かくして,「常陸丸」は,困難な進水作業も無事終わり明治31年4月16日進水しまし。三菱重工蠅旅グ佞砲茲蠶鷆…困い紳臺儺重な進水の写真を掲載します。当時の足場,造船所の様子,工場等をじっくりご覧下さい。


写真6 常陸丸の進水
足場の割立に注意、奥は段々畑だった


 7ケ月も工事は停滞し,船主としては配船計画が立てられなくなり大問題になり,引渡しが遅れたことによる延滞金を三菱に請求することが取締役会で取り上げられました。しかし,三菱も誠心誠意,未曾有の大工事に当たっていることから延滞金は半額である4万円に減額されています。ここで,悪いとされたのは外板の鋲となっていますが,外板の何処の鋲か,どの様に悪いと言われたのか詳細は分かりません。
 横道に逸れますが、今では殆どお目に掛かれない鋲構造に就いて簡単に取り上げてみます。

2.1 前作業

 作業に当たって,先ず必要な鋲を手配することは当然ですが,材料に鋲を通す穴を開けることから始まります。常陸丸の頃は,穴を開けるパンチやドリルは、もうあったようです。ただ,穴の位置が狂うと,鋲が通らず面倒なことになります。一枚の板にだけ穴をあけ,その穴を基準にしてドリルで相手の板に穴を開ける方法を当揉みとよんでいますが,当揉みをすれば二枚の板の穴が喰い違うことはありませんが,危険な足場の上で一本一本当揉みをするのは手間が掛かります。

2.2 鋲打ち

 5,6人の作業員が一組になって鋲が打たれます。この一組はホドと呼ばれています。持ち運び式の炉で鋲を加熱する役,焼けた鋲を鋏で摘んで現場に投げる役,これは,現場と炉が離れていれば2,3人で中継することになります。把手の付いた漏斗(ラッパと呼ばれる)で受け取ると,その真っ赤に灼熱している鋲を穴に通します,通った鋲の頭を片側で抑える役,反対側で,ハンマーで鋲頭を叩いて締めつける役が揃っていないと鋲は打てません。溶接作業は一人で出来ますが,鋲は一人では打てません。当時は,炉は石炭を使い,圧搾空気の鉄砲と称する鋲打ち機はまだなかったので大きなハンマーで一本ずつ打つのは重労働でした。当時三菱にはホドが何組あったか分かりませんが,大正中期、造船ブームの頃の川崎造船では,鋲打ち工は400人,80組のホドがあり、10時問で4万本の鋲を打っていたとされていおり,一組の鋲打ちが打てる鋲は一日500本ということになります。昔の構造規則では,常陸丸程度の船で外板の板厚は17伉度,それに対応する鋲の径は22个箸気譴討い泙后3鞍弔離掘璽爐2列鋲なので鋲打工は一日働いて,長さで僅か2〜3mの長さしか鋲着出来なかったことになります。大正7年の造船協会雑纂を見ていたら,英国の鋲打工R. Rarrantが一日9時間労働で径12.5弌長さ28.5个良討4,276本打ち,世界記録を立てたとの記事がありました。この工事は船ではなく人造バターを入れる容槽の組立でした。また、戦艦“武蔵”の場合は650万本の鋲が使われたとされています。
 外板の鋲接工事の様子をワープロで漫画的に描いてみたので参考にして下さい。鋲のピッチなどを正しい縮尺で描くと絵が大きくなってしまうので、正確ではありません。


第7図 鋲の打ち方


(1)は鋲を焼く人,昔は,子供にやらせていたと言われています。鋲打ちの指示により.短い鋲や長い鋲を頭を上にして炉に入れ加熱する。
(2)焼けた鋲を鋏で摘んで,受け取る相手に投げる。野球のピッチャー以上の熟練が要り,キャツチャーとの呼吸が合わないと鋲はとんでもない所に飛んで行き周りの人に危険です。
(3)受け取った鋲を穴に差し込む。
(4)中から出てきた鋲の先端を叩き、頭を丸くつぶして打ち上がり。絵には見えませんが内部には鋲の頭をしっかり抑えている力持ちが居ます。

 明治末期になると、圧搾空気で鋲を打ち込むガンが使用されるようになりハンマーで打つ肉体労働はなくなりました。

2.3 鋲の検査

 Mr.Robertsonのような船級協会検査員による鋲の検査は,或る範囲の鋲が打ち終わり,造船所の下検査が済んだ上で行われます。従って,造船所による前検査に余程の見落しが無い限り,足場板の上を歩き,打ち終わった鋲の外見を眺め,テストハンマーで抜取的に鋲頭を叩き,締まり具合を確認することになります。この場合,鋲の外側しか見ないことになりますが,船の内側は,その後で行われる射水試験で船体内部から見ることになります。

2.4 鋲工事の欠陥

(1)鋲の不良工事には,二枚の部材の鋲穴のずれなどにより規定の径の鋲が穴に通せないので,細い鋲を打って誤魔化すこと。
(2)長すぎ足り、短い鋲をうつこと。
(3)締めつけ不良。
(4)加熱しすぎた鋲を打つことによる内部応力(加熱しすぎた鋲が冷却されて鋲に引張り応力が働き,甚だしいときには後で鋲の頭が飛ぶことがある)
などが挙げられます。(1)と(2)は、鋲の頭の外観で分かり、(3)はテストハンマーで叩いて善し悪しを判断します。(4)は簡単には分かりません。なお,テストハンマーによるHammer testは,慣れれば叩いただけで鋲の締まり具合が分かります。疑わしい時には第8図の様に,鋲頭に指を添えて叩けば微妙な振動が指先に感じられ良く締まってないことが分かります。この方法は現在でも,主機,補機などあらゆるボルトの締めつけボルトの締り具合を調べるのに使われています。


第8図 鋲の検査
指を叩かないように注意!

 常陸丸の二重底鋲構造部は既にMr. Ei1ertoによって検査に合格しています。しかし,Mr. Robertsonは外板の鋲のどこが不良工事だと判定したのか分かりませんが,日本で欧米と同等な船が出来ることに対する嫌がらせか,或いは,彼は船体の鋲工事を良く知らず闇雲に難癖をつけたのかも知れません。
 現在のディーゼルエンジンの架構は昔の鋳造品と違って厚板の溶接組立で製造されています。船体構造と違って架構はエンジンの振動をまともに受けるので,少しでも溶接に欠陥があればそこから亀裂が発生して,足を出したりしてエンジンの破壊に至るので,その溶接工事は厳密な開先検査から始まって,仮付け,最終的な全溶接部に対する非破壊検査に至まで慎重を極めております。このような精密な架構ばかりを検査している検査員が,船体の溶接工事を見ると,その精度の粗さに驚くと思います。Mr. Robertsonは機関関係の検査員でボイラーなどの検査ばかりしており船体の工事の様子を良く知らなかったのかも知れません。また、大正7年に現在の北朝鮮,平壌の少し南にある兼二浦に,三菱が大製鉄所を建設し,鋼材を製造するようになり,帝国海事協会(現在の日本海事協会)は駐在検査員として,“船の常識”の著者である山口増人氏を派遣しております。一方ロイドは,年配のRobertsonと言う材料の専門家が駐在していたそうです。時代が多少離れているので同一人物かどうか分かりませんが,そうだとすれば彼は材料屋さんで鋲工事に就いては素人だったことになります。
 このまま謎でほっておくのは癩なので,その後ロイドの資料で調査したところ次のことが分かりました。問題のRobertsonは,David F. Robertsonで1997年にロイドに採用され直ちに長崎に赴任,前任者のJames E11eronと交代しており,肩書はShip & Engineer Surveyorになっています。1900年以降はロイド検査員の名簿から消えているところを見れば、「常陸丸」の事件で罷免させられたと言うのは本当であることが分かりました。彼のロイドに採用される前の経歴は不明ですが,多分,日本に寄港した船の船長か機関長ではなかったかと思われます。ロイド検査員としての在籍は長崎の2年未満で,検査員としての経験は明らかに不足と考えられます。また,ロンドンから調査に来たG. Stanbury は,ロンドンのロイド本部に二人いるAssistant Chjef Surveyorの中の一人でした。また,大正8年に兼二浦にいたRobertsonはM. Rohertsonで,Inspector of Forgings となっており,材料の専門家で長崎のD. F. Robertsonとは別人でした。彼は,ロイドのDarllingtonから兼二浦に出張しており.駐在員ではありませんでした。

参考
1.
2.
当時の日本船名録
1900年版ロイド船名録

参考文献
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日本郵船衂看史及び七つの海で一世紀
川崎重工業蠎匯
日本近代造船史
山高五郎著 日の丸船隊史話
山口増人 船の常識
造船学会雑簒(大正7年7月)
海運造船業(日本海運)経営史6
Lloyds’Rules 1911
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8)
10)
12)
14)
16)
創業百年の長崎造船所
新造船写真集(三菱横浜)
明治工業史(造船編)
山田迪夫 日本の船
上野喜一郎 船舶百年史
海運 1999年7月号
Practical Shipbuilding (A. C. Holms)
Lloyds’ Register in Japan




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