二度も撃沈された悲運の常陸丸 (3)

. 悲劇


1. 欧州航路の13隻完成

 本船は進水後4ヶ月して、明治31年8月15日に日本郵船に引き渡されました。三菱で初めて製造された直径が4メートルもあるボイラー4鑵を傭え、日本最初の大型三段膨張蒸気機関2機を搭載し,当時としては賛沢な客室の艤装工事がたった4ヶ月で完了したのは大したものだと思います。“常陸丸”は船体,機関とも国産であったにもかかわらず,出来ばえは素晴らしく,英国に発注した同形船と比べ遜色はなかったとされています。しかし、実際は処女航海において機関長はエンジントラブルで大分苦労したに違いありません。同33年8月、最後の"信濃丸“が日本に回航され,欧州航路の13隻が全部完成し,月2回横浜とアンワープの両港から同時に出帆することになっていました。寄港地は次の通りです。


絵1 長崎港で石炭を積み込む“常陸丸
山高五郎氏画


往航
横浜、神戸、門司、香港、シンガポール、ペナン、コロンボ、スエズ
ポートサィド、マルセイユ、ロンドン、アントワープ、ミットルスボロー

復航
アントワープ、ロンドン、ポートサイド、スエズ、シンガポール、香港、神戸

 この航路に当てられた13隻の船名は次の通りで,全部が同型船ですが,常陸丸のようにマストが4本の船と2本の船があります。


第1図 欧州航路の13隻

 この中で,信濃丸は海軍に徴用され仮想巡洋艦に改装後バルチック艦隊を発見した有名な船です。

2. 当時の高級士官

 当時の日本の外航船はまだ,世界的に認知されておらず,船長以下高級船員は,皆外国人(英国人)でした。事件当時の“常陸丸”では,船長は甲種のjohn Campbell,一等航海士はSamuel Jose Bishop ,機関長はJames Hugh Brass,僚船”佐渡丸“では,船長はGeorge Anderson,一等航海士はJohn William Song,機関長Wil1iam Ca11,一等機関士はA. Carmichelでした。日本人の船長では,不安とされ,保険金も高くなり,荷主もそのような船は嫌がっていました。
 最初の日本人船長が乗り全員が日本人であった外航船は,明治29年にボンベイ航路の“廣島丸”で、船長は明治20年8月28日に甲種船長の免許を取った。島津五三郎でしたが,欧州航路では依然として船長,機関長他高級士官は皆外国人(英国人が主)で,ボーイなどは中国人でした。なお,商船大学百年史によると、明治23年から29年までの甲種船長及び機関士の国籍は第2,3図の通りで,外航船の士官が殆ど外国人であることを憂い,現在の日本海運のように,一朝有事の際には日本の海運はどうなるのかとの論評が高まっていました。その後、三菱商船学校の卒業生も増え,日本郵船百年史と明治38年に帝国海事協会が刊行した“海事年鑑”によると,当時の甲種免状をもった士官の数は第4,及び5図の通りです。
 当時は一等機関士が機関長に昇格した頃で,船によっては機関長がいない船もありました。


第2図 甲種船長の国籍



第3図 甲種一等機関士(機関長)の国籍



第4図 日本郵船における高級船員の国籍(甲種のみ)
明治31年9月末現在の内航,外航船で外航船は殆どが外国人である。



第5図 高級船員の国籍


3. Campbel1船長

 明治38年発行の”海事年鑑”によれば,Capt.Campbel1は,明治30年6月30日登録で,日本の甲種船長の資格を取っており,免状番号は17番,ついでに、1番は,明治24年の大島崇彦,また,一番早く登録された船長は明治11年3月の酒井忠吉で番号は43番です。”常陸丸”の3人の英国士官は皆船と運命を共にしました。Campbe11船長はスコットランド人で,帆船から身を起こし,日清戦争勃発の頃,郵船に二等航海士として採用され,その後船長に昇進,欧州航路の船長を努め,常陸丸の三代目船長だったとされています。日本を愛し日本を第二の故郷と考えていたそうで,皆に慕われ大変優秀な船長で3年前に結婚,遭難の時、夫人は一時帰国していました。当時の新聞に彼の経歴が詳しく取り上げられていますが、その最後を引用します。
 “此度戦地出港の命に接するや両氏(機関長)躍如として盃を挙げ今度こそは大いにやるべしと互に深く相約する所ありしが如く遂に今回の災厄に罹りて慎重其任務を全うし機関長,一等運転手等相共に我が忠勇なる将士等と相携へて屍を海底に委したる沈勇と忠誠とは誰か同情の涙なからざらん,實に海員の龜鑑と謂ふべし"
 彼は,その後,勲五等に叙せられ,特別に五干円の弔慰金が下腸されています。

4. “常陸丸”の最後

4.1 日露戦争とロシヤ東洋艦隊

 当時,ロシヤには日本海に面した浦塩(ウラジオストック)と樺太対岸に尼港事件で有名な尼港(ニコライエフスク)を占有していましたが,冬季は氷結して使えないので何としても不凍港を手に入れたがっていたこともあり、旧満州、朝鮮に侵攻を続けていました。軍港としては日本海のウラジオストック(浦塩)と゚ン海の旅順がありました。
 小型艦艇を除いた主力艦隊の日本とロシヤとの比較は第6図の通りで、英国東洋艦隊を凌いで大きな勢力をもっていました。


第6図 日本艦隊とロシヤ,英国東洋艦隊の比較
明治37年5月現在(海事年鑑の資料より作成)

 “常陸丸”は処女航海後,欧州航路を10回程続けた頃に日露戦争が勃発しました。満州でロシヤを迎え撃つ日本陸軍の兵員,馬匹,武器,弾薬、軍事物資を輸送するために,明治37年2月10日,ロシヤに対する宣戦布告後直ちに陸軍に徴用されることになり朝鮮半島西岸を北上して朝鮮の仁川や大連方面に至る航海に従事することになりました。たまたま,不運と言うか欧州航路の11航が終わり帰国していた時でした。僚船“佐渡丸”と共に宇品に集結し,輸送指揮官の近衛後備第一連隊長須知源二郎中佐、監督として、山村弥四郎海軍予備中佐の下、第三軍に編入される近衛後備歩兵第一連隊等の兵員1,148人、馬匹620頭、を乗せ宇品を出帆しました。Campbell 船長以下、船員は102名でした。15日未明、関門海峡を通過、10時半筑前大島沖に差し掛かりました。

4.2 浦塩艦隊

4.2.1 装甲巡洋艦3隻

 第6図のロシヤ東洋艦隊の中、戦艦以下の主力は旅順の基地に集結しており,装甲巡洋艦3隻ロシャ,グロムボィ,リューリックの3隻と巡洋艦ポカチールが浦塩を基地としていましたが,ポヵチールは座礁しており使用不能な状態でした。浦塩艦隊の末路については後で取り上げようと思います。
 戦艦6隻からなる主力艦隊は旅順港内にあり,常時。東郷長官指揮の日本艦隊の監視を受けており,また、日本が,順港外に敷設した機雷で容易に出港出来ず袋の鼠の様な有り様でした。これらは,後日8月10日の黄海海戦で殆ど壊滅されています。“常陸丸”等を襲ったウラジオ艦隊の3隻はジエーンの海軍年鑑によれば第,7,8,910図の通りです。また,第二艦隊旗艦“出雲”の写真(同型艦“盤手”)を“日本海軍全艦艇史”より転載します。図中の4隻は同じ縮尺にしてあります。現在の軍艦の主砲は船体中心線の船首尾に置かれていますが,当時は,帆船時代の名残でロシヤ艦隊の大砲は両舷に配置され,1899年に英国のArmstrong社で建造された”出雲”級は前後に主砲があります。主砲は日露とも8インチ砲4門です。また,側面図で水線部に縞模様があるのは,装甲(アーマー)の厚さと範囲を表し,ロシヤの中央部10インチ(254)の厚板が張られており“出雲”の場合は装甲は,厚さ7インチ(178)です。第6図で装甲巡洋艦となっているのは,アーマーが施された巡洋艦です。一般に,装甲の厚さは,同じ様な主砲を持った敵艦が最大射程距離で砲撃してきた時に,経験や実験により弾丸が貫通しないとされる厚さにしてあります。

4.2.2 装甲(アーマー)

脱線しますが,アーマーについて書いてみます。辞書によると,アーマーとは先ず鎧と出ていて,次に装甲と説明してあります。鎧は平時は鎧櫃にしまっておき,戦いになると身に付けますが,軍艦の場合は,国際情勢が怪しくなってからドックに入れて,アーマーを付けるわけにはいかず,アーマーは常時付けたままです。世界最大の戦艦,“武蔵”,“大和”の外板は,第10図で分かるようにように特殊鋼16mmでそれに410个離◆璽沺爾20度の傾斜で取り付けられており,一番厚いのは砲塔の前部の630个任后7慨論澤廚離丱ぅ屮襪噺世錣譴Hovgaad著の“Structural Design of Warships"に出ている戦艦では第11図のように厚さ13"(330mm)で,艦名は出ていませんが,マレー沖海戦で日本の97式陸攻,1式陸攻により撃沈された英国東洋艦隊の戦艦“Prince of Wa1es"クラスと思われます。このアーマーは極厚の特殊鋼板であり,進水後浮いた状態で外板に張りつけられます。”武蔵”の場合,船側のアーマーは,呉海軍工廠で製造されたもので、一枚の長さが5.9m,幅3.6,重量は68トンとされています。これをどのようにして16个粒鞍弔房茲衂佞韻襪を第12図に分かりやすく描いてみました。外板とアーマーとの間にチーク材 (Backng) を挟みネジでアーマーを締めつけて固着しています。木材の代わりに,仮付けしたアーマーと外板の間にセメントを流し込む方法もあったようです。”武蔵”の場合は,詳細な図面が見当たらず”日本海軍艦艇図面集"の中央断面図では,直接外板に取り付けているように見えます。外板が垂直の場合はクレーンでアーマーを吊って簡単に取り付けられますが”武蔵”のように外板が20度も傾斜している場合ネジで締めつけるにしても,どのように取り付けたかは皆さん考えて下さい。


第11図 戦艦“武蔵”の装甲
“日本海軍艦艇図面集”を参考にして、板の厚さのみを表した



第12図 戦艦の装甲
本艦の艦名は記載されていないが、装甲が13“(330mm)であることから“Prince of Wa1es"級の戦艦のものと考えられる。参考までに、日本海軍の”金剛“、”比叡“の装甲は8”(203mm) “陸奥“、”長門“級は12”(304mm) である。この図面はHovgaadの“Structural Design of Warships"の図面を参考にして作成したものである。



第13図 装甲の取り付け方


4.3 “常陸丸”の最後

 浦塩艦隊の司令長官、スクルイドルフは捨て身の戦法で日本艦隊のふところに飛び込み,玄海灘で日本から大陸に向かう輸送船団を襲い通商破壊をしようと考え,ロシヤ,リューリック,グロムボイからなる装甲巡洋艦3隻は12日に浦塩を出港し日本海を南下していました。
 日本海軍は対馬を基地にした上村彦之丞中将を司令官とした第二艦隊がこの海域の警傭についており15日に哨戒任務についていた巡洋艦“対馬”が午前7時20分濃霧の中を遥かに南下する浦塩艦隊を発見,無線で連絡、直ちに第二艦隊は出撃、また第二艦隊より馬関(下関)港務部に対しては商船の西航を停止するよう打電しました。当時,日本では軍艦以外は無線を持った船は少なく,“常陸丸”も“佐渡丸”も警告の無線を傍受することは出来ずそのまま航行を続けていました。浦塩艦隊のグロムボイは先ず,日本に向かっていた“和泉丸”を攻撃し航行不能にさせ停船した“和泉丸”の生存者104名を救助,捕虜とした後撃沈しました。まだ午前9時過ぎなのに,あたりはだんだん霧が深くなり,雨も降りだしたため,視界はさらに悪くなり“常陸丸”も“佐渡丸”もすぐ近くに敵艦がいることには気がつかず,まさか,日本海軍の縄張りの中に敵艦が進入してくるなど考えてもいませんでした。浦塩艦隊のほうが一瞬早く日本の輸送船を発見、グロムボイが“常陸丸”に対して砲撃を開始しました。
 浦塩艦隊は普通攻撃の前に,相手船を停船させ,短艇で使者を送り船内を調査し,乗員を救助あるいは,脱出させて,奪捕するか撃沈するかしていましたが,警告もなく砲撃が開始されたのは“常陸丸”だけだったようです。11時過ぎ,敵艦に気がついたCampbell船長は必死に離脱,逃避を始めましたが,速力は15ノットが精一杯,一方“グロムボイ”は18ノットで如何ともしがたく,船内各所に被弾,死傷者が続出,燃えながら3時頃、船尾から沈没し,6年の短い一生を終わりました。本船の総乗員は文献によりまちまちで,東京朝日の2,579名というのは多すぎ1、252名というのが妥当なようで,戦死者は1,215名になります。救助された者は37名のみでした。
 生存者が語った戦闘の状況を長くなりますが,文字が薄れて読み難い明治37年7月19日付けの東京朝日新聞から読み易い様に書き直して転載します。句読点はありません。
“常陸丸”の最後
11日門司特派員発電(大延着)
 常陸丸の遭難者軍曹田所亀松(水戸市下市)以下下士一名兵士三十二名は漁船にて今朝九時六連島に着し土佐丸に収容されて帰る何れも重軽傷を負ひ居れり田所氏等の談によれば常陸丸は15日午前十一時二十分頃沖ノ島の南少し西七,八マイルの處に達したるに其時濃霧をを排して二隻の露艦忽然現出しロシャ號は右舷リュウリック號は左舷側一千米先の距離に接近し来りて止まれと信號し本船の將に停止せんとする一刹那最早両艦より二十数發の砲弾を發射し爲に数十名負傷者を出すに至る斯くて敵艦は三四哩を遠かり沖の島の南五哩に在る他の二砲艦の位置に就いて徐に本船の沈没状況を監視す然るに發射弾の命中したるは四五にて他は両舷側に落下し損害甚だ少く本船の安全なる状態を認めロシヤ號は更に五百メートルの距離に近接し五六十發の砲火を注ぎ再び前位置に退きて観望す此の砲撃によって本船は機関部大損傷を受け船の自由を失ひたれども尚沈没には至らず是より先き敵艦の現出するや各兵員は輸送指揮官の命により何れも其の居室に静座して後令を待てるが第一回の砲撃を受けて戦友に死傷者をだすや初めて甲板に上りたり第二回の砲撃によりて到底為すべからざるを覺悟したる頃最後の命令は下りたり而して海中に飛入る者あり自害する者あり聯隊長須知中佐は各將校に命ずるに馬草其他の燃焼物を集めて火を放ち貴重品を廃棄すべき旨を以てす此に於いて大久保少尉捧ぐる所の軍旗併に重要書類を始め荀も敵手に委すべからざるものは悉く焼捨て終れり聯隊長はやがてピストルにて悲愴の最後を遂ぐ續いて山縣大隊長第一中隊長長尾中尉は軍刀にて割腹し第五中隊長橋本大尉以下各将校上級戦員各兵員等はピストル併びに軍刀をもって壮烈なる自盡を爲すもの甚だ多し海中に飛込めるものは死カを盡して遊泳し傷つけるは溺死したりされど本船は容易に沈没せざるを以てロシヤ號は更に二百メートルに近き来たり砲弾三百發餘を亂發して船内並に海中に浮べる兵士船員等を亂殺す甲板上死屍山を築き海中に血潮を※※※其惨状言ふ可からざるなり想ふに敵は實に當初より我一兵を餘まじと虐殺を企てしなり船の全く沈めるは午後二時半頃にして其致命傷は艦部の吃水線下に命中せる約十發なりしが如し敵の射撃は頗る猛烈にて第一回の砲撃の時に一弾の下の田所軍曹以下十七名負傷し中八名は戦死したり軍曹は到底救ふべからずを知れるも先ず自ら負傷者に崩帯を加へて最後の決心を振ふ然るに各武器は一所に整頓し置きたれば急卒の際自己の兵器を得難く自盡するに道なく第二の砲撃の後海中に飛込みたり其内弾片飛来たりて右耳をかすめ負傷するが遂に溺没するに至らず第六中隊長三島大尉亦斎しく海中に在りしが余が言葉をかけしに對しモー仕方ないと言ひ終わりて遂に其の行く處知らず状況此の如くにして敵艦は咫尺の問に迫りて亂射したれば我乗員の殆ど全部は溺死にあらずして撃殺されたり一發の砲弾二十名を倒せる様の猛烈なる持に機関部に命中する際の如きは實に二百名の死傷者を出せり此の勇壮なる兵土は始終萬歳を高唱し船は盛なる萬歳聲裡に千古の恨みを飲みて玄界の海底深く沈没し了りぬ而して乗員中には一人も捕虜となりしものなし特に諒察を乞はざる可らず船長ゼー、キャンベル氏は最後までブリッジに在りて勇ましく其の織務に勵精し満事窮して事務長太田耕平氏と共に船と運命を共にしたるが如し本船沈没の際前方約二里の處に多数の漁船あり余等三十五名は午後五時過ぎ一隻の漁船を得て漂着せるが他にも多少の漂着者あるやも知れず

 以上が新聞記事です。なお,須知中佐は割腹自蓋されたとも砲弾で戦死したとの説もあり,別の新聞では,生存者37名の内訳は,軍曹2,伍長1,兵卒32,船員2名となっています。また,僚船“佐渡丸”は,同日零時半“リューリック”からの停船命合を受け、脱出しても逃げられないのでそれに従い,ボートを派遺しロシヤ側と交渉の結果,非戦闘員を残して,27名を“リューリック”に収容し,残りの乗員がボートに乗り移る途中で砲撃開始、幸い急所を外れたため大被害を受けましたが沈没は免れ後刻残った乗員930人は呉鎮守府の救助隊により救助された後,六連島まで曳航されています。
 上村中将の率いる第二船戦隊の巡洋艦,“吾妻”,“磐手”,“常磐”,第四戦隊の“浪速”,“高千穂”等は直ちに出撃していますが,濃霧と雨の中視界が悪く遂に浦塩艦隊を捕捉することができず切歯扼腕して対馬に戻りました。この悲報が伝わるや,日本国中が悲しみに沈み浦塩艦隊を摘捉,撃滅出来なかった上村艦隊と海軍に対する非難が巻起こりました。上村中将宅には暴漢が押入ったり,投石が繰り返されたそうです。

4.4 慰霊碑と琵琶歌

 ”常陸丸”の悲劇を題材にした琵琶歌が作られ,各地で演奏されたとされています。現在は捷琶歌など殆ど聞くことは出来ませんが,宝塚の娘役のトップスターてあった,上原まりが琵琶に転身して18年,琵琶歌の復活に努めているそうです。なかなか見つからなかった歌詞をやっと見つけたので,これもついでに文末に紹介します。
 戦死者のお墓は青山霊園にあり。靖国神社には大鳥居の右側に東郷元帥筆の大きな殉難記念碑が建てられています。戦後,慰霊碑は占領軍により破却を要求されたそうですが,英国人も祭られていると言うことで牛ケ淵より移設されたそうです。現在でも遺族の方が参列して6月!5日に慰霊祭が行われているそうです。


写真3 青山墓地にある慰霊碑(中野保氏撮影)



写真4 靖国神社にある殉難記念碑と筆者



写真5 殉難記念碑の追悼文



写真6 23年前の悲劇を語る常陸丸の水桶
日露戦役当時、近衛第一連隊の後備将士,須知中佐以下六百餘名を乗せた運送船常陸丸が露艦の襲撃の遭ひてあはれ玄海の藻屑と消えて二十三年、その記念祭が六月十五日青山墓地に於いて執行せられた例に依り殉難将士の遺族を始め多数の参拝者があって盛会を極めた。写真は当日の撮影に係るもので、中央須知中佐未亡人の手にする HITACHI MARUと記された水桶は、今を去る十年前長崎付近の兎ある漁村に漂着した常陸丸使用のもので是を所蔵した一漁夫の篤志に依りけふの祭典に送附し来れしもの。又その後ろの松崎未亡人の持てる板は当時遭難の一水兵が是に縋って一命を助かりたる長さ一間餘の船板の一片である。(歴史写真 大正15年8月号より転載)



参考文献:
日本郵船百年史、商船大学百年史、海事年鑑(明治38年版)、萬朝報、
東京朝日新聞、日露戦争(児島嚢)、日本海軍艦艇図面集
日本海軍艦艇史、Structura1Design of Warships (Hovgaad),
歴史写真(大正15年8月號)、Jane's Fighting Ships 1906/7(遠藤昭氏提供),
戦艦大和の建造 (御田重宝)




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