二度も撃沈された悲運の常陸丸 (4)

. 浦塩艦隊の活躍


 戦記物を書く積もりはありませんが,日本中を悲しみのどん底に落し込んだ浦塩艦隊がどんな活動をして、その運命がその後どうなったのかに就いて,簡単に取り上げてみます。日露戦争中,浦塩艦隊は明治37年8月14日蔚山沖海戦で壊滅するまでに少なくとも6回出撃しているようです。そうして,3回目の出撃で常陸丸を撃沈させた翌7月には,勇敢にも津軽海峡を通過,太洋に出て,駿河湾まで進入,各海域で通商破壊を行いました。

1. 第一回出撃

 明治37年2月8日,三笠を旗艦とする連合艦隊は旅順港のロシヤ艦隊を攻撃,9日には,駆逐艦隊が仁川港に停泊していた,二等巡洋艦ワリヤーグと砲艦コレーツを攻撃,両艦は自沈しました。翌10日にロシヤに宣戦が布告され,日露戦争が勃発しました。浦塩艦隊の最初の出撃は2月上旬と考えられ,宣戦布告の翌11日には巡洋艦5隻が津軽半島西岸に現れ,警告なしに小樽向け北上中の全勝丸と奈古浦丸を攻撃しています。幸いに攻撃から逃れることができ福山港に入港した全勝丸の船長の目撃談では奈古浦丸は完全に包囲され青森県十三潟10海里沖で午後2時頃撃沈されました。これが浦塩艦隊の最初の出撃でした。攻撃したのは前記,装甲巡洋艦,ロシヤ,リューリック,グロムボイの3隻と巡洋艦ボガツィリ仮想巡洋艦レナです。
 奈古浦丸の旧船名はチャイナで長さ53.6m,1,084トンの鉄製貨物船です。ドイツで1865年に建造されています。通常は,伏木小樽間で,米穀の輸送に従事していましたが,この時には酒田港より北海道に出稼ぎに行く漁民800人程が乗船しており全員が犠牲になったのは大変痛ましいことでした。本船は日露戦争で最初に犠牲になった商船です。艦隊はこの後,浦塩に戻りました。



第1図 第一回出撃


2. 第二回出撃

 ロシヤ東洋艦隊の主力は旅順港で日本海軍の監視下におかれ容易に出撃出来ず,日本海軍と違ってまだ全艦隊には無線がなかったため,艦隊間の連絡が十分に取れていない状態でした。日本海における日本海軍の動静を探るため,浦塩艦隊は5月に日本海を朝鮮半島東岸に沿って南下,5月25日,元山沖に至り,停泊中の五洋丸を撃沈,海軍輸送船として徴用され北朝鮮の利原から元山に向け航行中の日本郵船の貨客船金州丸3,967トンを撃沈させています。
 本船は英国で1892年建造された鋼船で旧船名はキンタックと呼ばれていました。また,五洋丸は600鼎龍甞す厦の貨物船で,1884年ドイツで建造されたスクーナー型鉄船です。その後艦隊は浦塩に帰港しましたが,朝鮮半島東岸の日本海軍が手薄なことが判ったので,浦塩艦隊司令長官スクイドルフ中将は朝鮮海峡に殴り込みを掛け日本の通商破壊作戦を立てました。

3 第三回出撃

3.1 浦塩艦隊往航

 常陸丸は第三回出撃において沖の島沖付近で犠牲になりましたが,この時に被害を受けたのは次の3隻で和泉丸が最初に犠牲になっています。
  • 和泉丸撃沈6月15日09:00沖の島付近
  • 常陸丸撃沈6月15日14:20沖の島付近
  • 佐渡丸大破6月15日沖の島付近
 和泉丸は,命令航路である日本郵船のムンマイ(孟買)航路の定期船でしたが,陸軍に徴用され,当時は満州から門司に向けて軍人3名の他108名の船員と民間人を乗せて航行していました。14日の入港予定日を過ぎても帰港せず,電信不通の海域で避難しているとされており,沈没が確認されたのは,脱出に成功して18日,舞鶴に漂着した佐渡丸の乗員の報告によるものでした。本船は常陸丸が攻撃を受ける前の15日8時頃包囲され,9時頃機関室の被弾により沈没したことが分りました。4隻の救命艇を降下させ避難の途中,戦死者以外はグロムボイに捕虜として収容されています。衣服を給与されたこれらの人達は綿の耳栓をさせられ,グロムボイのデッキの上で,常陸丸が攻撃される様子を悔し涙で目撃しております。和泉丸の救命艇1隻は,戦死者1名を乗せたまま後日,福岡に漂着しました。本船は,明治26年末,英国のWi11iam Dobusonで建造され,翌年4月に日本郵船が購入,和泉丸と命名したものです。要目は332-65 x 39-30 x 26-65フイート,総トン数3,229トンの鋼船です。遭難当時の船長は,肥後猪之丞(42歳)で,東京商船学校卒後,三菱との競争相手であった共同運輸に就職し,日本郵船が創立された時に,郵船に移り船長を勤めていおり,仁川丸の船長を5年勤めましたが,仁川丸が旅順港閉塞船となったため,和泉丸に転船した直後の遭難でした。明治15年11月に甲種船長の登録を受け,免状番号は6番の老練な船長だったそうで,船と運命を共にしたのか捕らわれたのか調べて見ましたが分かりませんでした。グロムボィの捕虜になった佐渡丸の人達のうち23名は,浦塩に帰る途中の16日,隠岐の島付近で同艦の検問を受け釈放された帆船第九運鉱丸に移乗され帰国しています。艦隊は和泉丸を撃沈させた後,常陸丸を撃沈,佐渡丸を大破させ、浦塩に向け、勇敢にも本州の西岸を通過して帰港の途に着きました。


第2図 装甲巡洋艦 ロシヤ



第3図 装甲巡洋艦 クロムボイ



第4図 装甲巡洋艦 リューリック



第5図 第三、四回出撃


3.2 浦塩艦隊復航

 第四船隊の巡洋艦“対馬”の浦塩艦隊発見の報に接し対馬を基地にしていた上村中将指揮の第二艦隊は旗艦である巡洋艦“出雲”を先頭に“吾妻”,“磐手”,“常磐”が直ちに出撃しましたが,雨を交えた濃霧のため玄界灘では発見出来ませんでした。敵艦は来た時と同じコースを通って朝鮮半島東岸から浦塩に戻ると想定,なおも捜敵を続けましたが,遂に発見出来ず涙をのんで,対馬の基地に戻りました。その後判明した事実により,浦塩艦隊は,日本の意表を突き,隠岐諸島,能登半島沖を経て北海道の奥尻島南まで北上しています。“和泉丸”、“常陸丸”、“佐渡丸”を攻撃した後の浦塩艦隊の復航における,行動は次の通りでした。
  • 英船アラントン 拿捕,  6月16日09:00島根半島沖
  • 第9運鉱丸 停船,   6月16日14:00隠岐諸島東岸沖
  • 新湊丸, 停船, 尋問  6月18日05:00北海道江良沖
  • 巴港丸 停船, 尋問   6月18日05:30北海道江良沖
3.2.1 アラントン

 本船は4,253トンの英国の貨物船で,石炭を満載して米国に向かって航行中,島根半島沖で,砲撃を受け,停船したところロシヤ軍人が乗り移ってきて,英米人の乗組を拉致,ロシヤに移乗させた後,拿捕され、ロシヤの乗組員の手で浦塩に回航されました。満載の石炭の獲得が狙いでした。

3.2.2 第9運鉱丸

 143トン,長さ113.5フィートの木造帆船で三池からコークスを積んで隠岐の島付近を航行中,停船を命じられ,攻撃は受けませんでした。この時に、先に撃沈した和泉丸からの捕虜23名が引き渡されています。

3.2.3 新湊丸

 艦隊が第9運鉱丸に接触した二日後の18日、早朝、北海道江良沖で青森から出港,空船で北海道に向かっていた新湊丸1,839トンが捕捉されたが、幸いにも空船であったためか,尋問を受けただけで釈放されています。

3.2.4 巴港丸

 新湊丸が停船を命じられた直後、同じ海域において、明治23年函館で建造された木造の近海貨物船巴港丸238トンが空砲による威嚇射撃を受け停船を命じられました。本船は利尻島で鰊粕,雑貨と漁夫60人を乗せ出航したばかりでした。艦隊は国旗を掲げていないし,色も日本の軍艦と同じだつたので,日本の軍艦だと思っていたところ突然の発砲、停船命令を受け,早速船長が命懸けでロシヤに接近,ロシヤは左舷の梯子を下ろし船長以下4名を乗り込ませ函館に待機している日本海軍の軍艦の種類と隻数を尋問しました。船長は、実際本船は函館には最近行ったことがないので知らぬ存ぜぬで応じたところ,そのまま釈放し、乗っていた佐渡丸の生存者1名をも返してくれています。彼は,佐渡丸が攻撃を受けているとき海に飛び込みもがいていると通りかったロシヤが綱を下ろして救助してくれたのだそうです。ロシヤの乗組は巴港丸の船長に蜜柑を要求したそうですが,戦前の浦塩艦隊は冬季港が結氷するため,毎年冬に長崎を訪れ、当時長崎にはロシヤ村もあったといわれ,軍人の中には日本語が分かるものも居たようです。
 この他に,“安静丸”、“八幡丸”を撃沈,“博通丸”を拿捕,“宝徳丸”からは船内の時計,金銭を奪ったとされていますが海域、日時、船の大きさ等の調査は省略しました。この後,艦隊は津軽海峡を左折し浦塩に向かい,6月19日夜,無傷で帰港しています。

4. 第四回出撃

“和泉丸”、“常陸丸”を撃沈させ6月19日,浦塩に帰港後,28日に3隻は水雷艇8隻を従えて再び出港、朝鮮半島東岸を南下、30日早朝、05:30に水雷艇が元山港に進入,帆船“幸運丸”と“清渉丸”(122トン)を攻撃,炎上、沈没させた後、400発に及ぶ艦砲射撃を行い,10時頃北方に向け出航して行きました。この3隻は沖に停泊しており艦名は不明ですが,ロシヤ・グロムボイ,リューリックの3隻と思われます。翌,7月1日,06:40上村艦隊は,對馬水道を南下中の,上記3隻を発見,即座に追跡,邀撃しましたが、捕捉出来ませんででした。当時は航空機がまだ使用されておらず,勿論レーダーも無かつたので,広大な海上を進む3隻を追跡するのは非常に難しかったと思われます。7月5日に上村艦隊から大本営に届いた報告は次の通りです。

“7月1日午後6時40分敵艦ロシヤ, グロムボイ, リューリックの3隻對島東水道を南下し海峡を通過せんとす我艦隊は對島、壱岐の間に於て其前路を拘し之に迫りしに敵は我艦隊を認むるや急に舵を転じて北北東に逸走せり此時彼我の距離約12海里我艦隊は全速力を以て之を追跡せしも時漸く薄暮に近く將に敵の形跡を失はんとす我水雷艇隊の一部は益々進んで二三海里に迫りしとき敵は探海燈を照らし猛射防戦に努む我艦隊は益々之に迫りしも砲戦距離に達するに至らずして午後8時50分敵は忽然燈火を滅して暗中に没せり我艦隊は百方之を捜索せしも遂に之を發見するを得ず我艇隊も亦水雷射距離に達するに至らずして敵を逸せり"

5. 第五回出撃

 この攻撃も“常陸丸”を襲った時と同じ3隻によりものでした。グロムボイの石炭の量は、2,100トン,ロシヤは2,500トン,リューリックは2,000鼎,速力10ノットで巡行する場合,ロシヤとリューリックの航続距離は19,000海里,グロムボイは燃料消費が多いのでこれよりは短いとされています。第四回出撃の3隻は7月17日,04:30浦塩を出航、20日の03:30頃津軽海峡に接近,間もなく当別沖で霧の中から姿を表し,8時頃には恵山沖を通過するのが確認され,直ちに函館より水雷艇が出撃したと報じられていますが交戦したという記録はありません。津軽海峡を無事横断して太平洋に出て,日本本土沿岸を南下,遠州灘まで足を延ばし,同じ航路を取って北上,再び津軽海峡を抜けて8月2日に浦塩に無事帰還しました。



第6図 第五回出撃(裏塩艦隊の動き)

 半月以上の長い航海でしたがこの間,少なくとも12隻の船が被害に遭っています。即ち,日本商船5隻,英国船1隻,ドイツ船1隻は撃沈または爆沈させられ,英,独の各1隻が拿捕,3隻が略奪,臨検を受けています。当時、お台場など主要海岸には28サンチ榴弾砲が設置されていましたが,旅順攻撃に使用するために,一部は分解して海上輸送されており,一部は砲座から外して輸送のため分解されていたようです。従って,浦塩艦隊は航続距離からいっても容易に東京湾に入り千葉,横須賀,東京等を砲撃出来たと思われます。若し元山で行われたような艦砲射撃を受けていたら大変なことになっていたに違いありません。この攻撃により商船の日本列島東岸の航路は全部ストップになり,横浜では米不足が起きたとされています。
 一説によれば,当時浦塩では日本海軍が攻撃をしてくるとの噂が流れ,市民に食料を配り,市街よりの避難を呼びかけており、一方では,津軽海峡の恵山沖で浦塩艦隊の砲撃を受けた英国貨物船サマラに乗り込んで来た水兵の話しとして,“浦塩港は現在日本海軍が攻撃を仕掛けているので,暫くは帰国出来ない”、と言っており,浦塩艦隊が第五回出撃を試みたのは,日本海軍の攻撃を避ける目的もあったようです。勿論日本が浦塩を攻撃するような計画はありませんでした。第五回出撃までの往航と復航の動きは次の通りです。

5.1 浦塩艦隊往航

5.1.1 津軽海峡での動き

7月20日
04:30 白神岬を通過
05:30 函館沖通過
06:00〜06:40“高島丸”攻撃,撃沈
07:00 恵山沖にて英船“サマラ”略奪の後釈放
10:50 “共同運輸丸”略奪の後釈放
15:00 ”喜宝丸”撃沈
15:00 ”北生丸”略奪後,爆沈


第7図 第五回出撃(津軽海峡)


1)“高島丸“

 東京湾汽船所属の318鼎量畋げ瀛船で東京と宮古間の定期船でしたが,積荷の関係で,宮古より鉱山用火薬等を積み函館に航行中災難に遭ったものです。7月20日,06:30磯谷沖60海里でロシヤとリューリックに捕捉され,士官2名と水兵20名がボートで来船し,船内の捜査はせずに船員19名と船客19名全員を本船のボートと伝馬船に移るよう命令し,ボートが本船を離れて間もなく,機関室が爆発,沈没しています。ロシヤ兵が来たときに機関室に時限爆弾を仕掛けたことによるものとされています。

2)英船サマラ(Samara)

 本船を襲ったのは,グロムボイで,“高島丸”遭難後,07:00,恵山沖を航行中2発の砲撃を受け,停船したところ,60名程の水兵が来船し,船長に樺太まで航行するよう命じました,船長がそこまでの燃料がないと拒否すると,本船属具,金品を略奪して3時間後に釈放しました。この船は北海道炭鉱鉄道に傭船されていた,グラスゴーで明治22年に建造され,ロイド100A1の船級を有する2,83トンの貨物船です。要目は当時のロイドの船名簿によれば、314.5x40.6x22.1フィートとなっております。

3)“共同運輸丸”

 漁民50名と雑貨を積み,函館向け航行中,10:40リューリックが寄ってきて停船を命じ、1隻のボートに乗った士官3名と水兵18名がやってきて,略奪の上,退船を要求したので,本船のボートに移ったら,再度本船に戻るように指示され,11:26無傷で釈放されています。この船は147トンの鉄船で、明治23年大阪で建造されています。漁民が50名も乗船していたので撃沈されていたら全員死亡したものと思われます。どうも,リューリックに捕捉された船は艦長の判断で撃沈されずに釈放されている例が多いようす。

4)“喜宝丸”

 明治31年建造の140トンの木造帆船ですが15:00頃,尻屋崎沖で撃沈された時の詳細は不明です。

5)“北生丸”

 明治22年函館で建造された91鼎量畋と疏イ任垢11:00頃,同じく尻屋沖で略奪された後,爆沈されていますが,詳細は記録が見当たりません。かくして,浦塩艦隊の3隻は18:00頃,悠々と太平洋に出て南下を続けました。

5.1.2  本州東岸南下、駿河湾まで

 塩屋崎沖から石廊崎までは速カ約6〜10ノットの低速で航行しておりこの間の行動は次の通りです。

7月21日
07:40 岩手県山田港沖40海里を10ノットで南下

7月22日
09:00 茨城県川尻沖60海里10:00江名沖10海里南下
12:00 茨城県磯浜,平磯沖(犬吠崎北)80海里
13:00 那珂港沖80海里,独船アラビヤ享捕.

7月23日
10:30 房総半島東岸にて砲声

7月24日
07:00 御前崎沖9海里
09:00 伊豆長津呂沖30海里で英船ナイトコマンダー撃沈
10:30 石廊崎南西40海里を東進
14:00 自在丸, 福就丸爆沈
15:00 御前崎南35海里にて英船ツワイナン尋問後ナイトコマンダーのインド人船員21名を引渡後釈放



第8図 第五回出撃(太平洋)


6) 独船アラビヤ(Arabia)

 福島県那珂港沖で22日拿捕されており,時刻は不明です。4,438トン,ハンブルグで1901年に建造された385.4 x 49-9 x 26,8フィートの鋼船でロイドの十100Alの船級を持っていました。

7) 英船ナイトコマンダー(Knight Commander)

 24日07:30伊豆沖で3隻の艦隊に停船を命じられ,相手はボートを下ろして,本船に来船,積荷目録を調べた後,船長を拉致して一旦戻った後,10分以内にナイトコマンダーの乗組員をボートに移すよう命じ,63名の全員がロシヤに移乗してから,ロシヤが勝手に国内法で定めた戦時禁制品であるレール,小麦粉を積んでいたとしてリューリックの砲撃で撃沈されました。伊豆長津呂望楼での目撃者によれば,最初の3発は命中せず,後で魚雷を発射して撃沈させたとのことです。本船は,4,306トン,1890年ニューキャッスルで建造され,要目は400.00 x 47.2 x 27.9フィートの貨物船です。日英同盟が成立していたとは言え,英国は中立国でロシヤとは戦闘状態ではないのにボスファラス海峡で貨物船マラッカが攻撃を受けた他にも,ロシヤ海軍に撃沈,捕獲された船があり,ロシヤ政府に対して強硬な抗議をしている最中の,極東におけるナイトコマンダーに対する海賊行為でした。同24日,17:00頃,ナイトコマンダーのボート3隻が石室崎付近に漂流しているのが漁船により発見され,一隻の中には懐中時計が51個もあったそうです。

8) 自在丸爆沈

 24日11:00頃,撃沈とされていますが,海域は不明です。乗組は7名で全員船と運命を共にした模様です。当時の日本船名録によれば,本船は明治28年4月,建造の199トンの木製帆船です。

9) 福就丸爆沈

 同日12:00頃,撃沈され,乗組5名も同時に犠牲になっています。本船は明治32年浦賀で建造された,130鼎量畋と疏イ任后

10)ツワイン臨検,釈放

 15:00御前崎南35海里(東経183°,北緯34°-10')にて艦隊に捕捉,停船を命じられ,士官1名と信号兵2名が来船しました。積荷目録を検査したところ,米が1,400鼎△襪海箸鬚澆辰,艦隊に連絡したところ,ツワインは釈放して良いとの返事があり,さらに,先に撃沈させたナイトコマンダーの乗組を収容することを要求してきました。当然これを了承したところ,インド人水夫21名のみでしたが、これを収容し,艦隊が見えなくなるまで蒸気を止め停船しているよう命じ。東北に姿を消したそうです。自在丸と福就丸の遭難の事情は捕虜になっていたインド人の報告により判明したものです。

5.1.3  房総沖から津軽海峡横断、帰途に着く

 艦隊は御前崎沖を迷走した後,帰途に着いています。そうして,7月25日16:30房総半島沖で独船テアを補足,略奪の上,撃沈させ,その後,英船カルロスを拿捕,27日、北上,途中、日本の軍艦が浦塩艦隊を追尾しているらしいとの記事がありますが,誤報のようで,30日、津軽海峡を無事通過して8月2日,浦塩に無事帰港しています。

11)テア(Thea)略奪後撃沈

 本船は,ドイツのキールで建造された1,613トンの鋼船で,要目は255.0 x 35.5 x22.0です。撃沈に至までの詳細は不明です。

12) カルロスを拿捕

 常陸丸より少し大きい6,748トンの英国貨物船であるということしか分かりませんでした。
 結局,日本側としては手も足も出ず,第五回出撃では大小12隻の船に被害を与え浦塩艦隊の跳躍を許したことになります。当時海軍の主力は玄界灘と旅順方面に布陣しており傍観するだけで一矢も報いることが出来ませんでしたが,止を得なかったのかも知れません。
 しかし,誠に切歯掘腕,残念な一幕で,住民の一部が,第二艦隊司令長官上村中将宅に投石などをしたのも,何となく分かる様な気がします。

6 第六回出撃と蔚山沖海戦

6.1 出撃の目的

 戦艦6隻,巡洋艦5隻,駆逐艦8隻からなる,ロシヤ旅順艦隊主力は,日本が港内に敷設した機雷群と外で待ち構える連合艦隊のため,出るに出られない状態でした。そのまま旅順に籠もっていれば徒に自滅を待っばかりなので,この際浦塩に回航して,浦塩艦隊と合流することになり,小型艦艇を残し主力の戦艦,巡洋艦,駆逐艦計19隻が8月10日,09:00日本海軍が待ち受ける黄海に向け出航しました。待ち受けていた東郷大将麿下の三笠以下連合艦隊は同日17:00頃,旅順艦隊に潰滅的打撃を与えました。これが黄海大海戦です。そうとは知らぬ浦塩艦隊は,朝鮮海峡で旅順から浦塩に向かう旅順艦隊と合流すべく8月12日,悪名高い3隻が浦塩を出航,朝鮮半島沿いに南下していました。

6.2 蔚山沖海戦

 日本海軍は,浦塩艦隊の出撃を予想し,今度こそは,憎い浦塩艦隊を撃滅して仇打ちをしようと,上村中将の率いる第二艦隊は邀撃態勢をとり,“出雲”を旗艦とした第二戦隊と巡洋艦“浪速”以下の第四戦隊を朝鮮海峡と対馬海峡を繋ぐ線に配置して邀撃態勢が整っていました。
 黄海海戦で大敗を受けたことをまだ知らなかった浦塩艦隊3隻は元山沖を経てそのまま南下,8月14日,04:50第二艦隊は遂に浦塩艦隊を発見することが出来ました。互いの距離が約4.5海里に近ついた早朝05:23“出雲”からの砲撃が開始され敵艦からの応戦も始まっています。緒戦は相手の3隻に対して我が軍の4隻の戦いで,6時頃には敵3隻に火災が起きました。戦闘の結果は,ロシヤは11発の砲弾を水線付近に受け,煙突3本は倒れ,ボイラー3缶が破損し射撃可能な大砲は3門のみとなり,グロムボイも舷側に6発の砲弾を受け外板の数個所に破口が生じ艦橋,司令塔など艦内に大損害を受けて逃走,リューリックは艦長,副長の他多くの士官が戦死,負傷し航海長の大尉が指揮を取っていました。航行不能となり,第四戦隊の追撃でもはや逃げられぬと船底弁4個を開き自沈しました。第二戦隊は,瀕死の損傷で逃走を試みる2隻を追跡していますが,追いつかず一方,砲弾が残り少なくなったこともあり,10:04の打ち方止めの命令で5時間にわたる戦闘は終わりを告げました。我が軍の被害はリューリックよりの砲弾が磐手の6インチ砲塔に命中し死者40名,負傷者37名を出し,“出雲”は砲撃中腔内爆発が起きた程度で大きな被害はなく,艦隊全体で戦死者45名,負傷者81名を出しています。この海戦で特記すべきことは,浦塩艦隊の2隻は,大損害を受けて速力の落ちたリューリックを救援のため日本軍の砲撃の危険の中,4回も戻って援護を試みたことと,日本艦隊が海上に漂う620名のリューリックの乗組を救助したことです。戦闘の概略について,明治37年8月16日の萬朝報の記事を以下に引用します。

浦塩艦隊撃破詳報
(大海報第七十七號)
(上村第二艦隊司令長官報告要領八月十五日午前五時三十五分発)
14日天明出雲(艦長海軍大佐伊知地喜珍)吾妻(艦長海軍大佐藤井較一)常磐 (艦長海軍大佐吉松茂太郎)磐手(艦長海軍大佐武富邦鼎)ハ韓国蔚山沖に於いて索敵行動中浦塩艦隊三隻の南航するを發見せり敵ハ我隊を見るや北に向かい遁走せんとするを以て直ちにその前途を扼し午前五時二十三分に至り戦闘を開始せり敵の殿艦リューリックハ常に後れ勝ちにて断えず激烈なる砲火を被れり前続二艦ハ屡バ勇敢に之を援護し遠さかれバ轉回して之に近ずき近ずけば又前進せり依て我隊は屡バ丁字形を書きて敵に集弾するの利を得たり其結果敵艦は何れも數次大火災を起し多大の損害を負はしめたり特にリューリックの如きハ遂に進退の白由を失い砲力も亦全滅に近ずき時々緩慢なる發射を爲すのみにして其艦尾ハ著しく沈み且っ少しく左舷に傾斜するを見たりしが敵ハ遂に之を捨てヽ遁走せり恰も良し第四戦隊戦場に近ずき浪速 (艦長海軍大佐和田賢助)高千穂(艦長海軍大佐毛利一兵衛)のリューリック攻撃に進むを見たるを以て本隊はロシヤ,グロムボイを追撃せり此間激戦約五時間に及び敵の二艦ハ全速力を以て逸走す午前十時十九分我戦隊ハ右舷に回頭しリューリック捜査に為に南航せるにリューリックハ遂に沈没せるの報に接するを以て直ちに全隊の集合を命じ其沈没位置に至り浮泳する人員約六百名を救助し得たり我艦隊ハ多少の損害を受けたるも何れも重大ならず士氣極めて旺盛なり今回の戟闘に於いて重大ならざる損害を以て多少の効果を収め得たるは偏に大元帥陛下の御稜威に因るものにして一同感激に堪へざる所なり「備考」司令長官海軍中絡上村彦之丞ハ出雲に司令官海軍少縛三須宗太郎ハ磐手に坐乗せり又第四戦隊司令官ハ瓜生外吉なり


7. 終わりに

 このように浦塩艦隊は再起不能の状態に陥り日本海の制海権は完全に日本のものになりました。しかし,たった3隻の巡洋艦のために,外国商船を含め和泉丸、常陸丸等14隻を撃沈,爆沈させ,佐渡丸を大破,外国船3隻を拿捕,停船,略奪をおこなった船7隻というのは,第1次大戦の時にインド洋で暴れて,フランス駆逐艦,ロシヤ巡洋艦各1隻と商船20隻を撃沈したドイツ巡洋艦エムデンにも匹敵する活躍と言うことが出来ます。
 また,一方で,蔚山沖海戦で浦塩艦隊3隻に対し,第二戦隊の巡洋艦6隻,第四戦隊の4隻の他,駆逐艦8隻,水雷艇8隻からなる圧倒的に強力な第二艦隊が,どうして3隻を撃沈させることが出来なかったのかには些か疑問を持たざるを得ません。弾薬が不足するほど砲撃をしたのに,バルチック艦隊と戦った,三笠以下の第一艦隊の正確な砲撃と比べ,第二艦隊の命中率が低かったことも原因のようで,大損害を受け外板からの浸水を被りながら逃走する2艦を追尾できなかった第二戦隊の速力にも疑問が沸きます。
 なお,ロシヤは修理後,第1次大戦にも参加し,1922年にスクラップされ,グロムボイも修理された後,やはり1922年まで在籍していたようです。

 次は,常陸丸沈没後約10年を経た第1次大戦に於いて,インド洋で撃沈された常陸丸二世に就いて触れることとします。


参考文献:
日露戦争(小島襄)、日露戦争の辞典(原田勝正)、日本船名録
LR Register Book、東京朝日新聞、萬朝報、時事新報、読売新聞




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