二度も撃沈された悲運の常陸丸 (5)

. 常陸丸2世の生涯


1. 始めに

 “二度も撃沈された悲運の常陸丸”と題したので,どうしても二度目の事件にも触れざるを得ません。
 本船は日露戦争の時の“常陸丸”と違ってあまり知られていません。常陸丸2世の船長であった富永清蔵氏のお孫さんでもあり,日本造船学会の終身会員でもいらっしゃる山口爲也大先輩から貴重な資料の提供を頂いたので,防衛庁の防衛研究所にある資料なども交えて調査してみました。なお,資料により日付が違っているところがありますので含みおき下さい。結果から言うと,本船は,ドイツが降伏して第1次世界大戦が終焉する一年前の大正6年(1917)9月1日門司を出帆して欧州に向かう途中,印度洋で行方不明になり広範囲な捜索が行われ浮遊物が発見されただけで,翌年3月まで謎に包まれていました。ドイツの仮想巡洋艦ヴオルフ ( Wolff ) により爆沈された事実が判明したのはヴオルフが帰国した,大正8年2月末で、半年間行方不明とされていました。そうして,詳細は捕虜としてヴオルフに収容され,ドイツの捕虜収容所に入れられた生存船員が、戦後帰国しての報告によるものでした。

2. 常陸丸2世の要目

 本船は,日露戦争において,玄界灘で撃沈された,日本郵船,欧州航路の常陸丸の代船として同じ三菱造船で建造されました。1世と2世の相違を表1と図1で表してみました。何故か幅が違うのが気になります。


表1 一世と二世の相違



図1 外見上の相違



写真1 常陸丸二世



写真2 常陸丸二世の食堂


3. 第1次世界大戦

 第1次世界大戦の勃発は,大正3年(1914)7月28日とされていますが,この日はオーストリヤとハンガリーがセルビヤに宣戦布告をした日で,本格的な大戦になったのは8月上旬です。この期間の戦争開始は次の通りです。大正3年8月2日ドイツがロシヤに宣戦布告、8月3日ドイツがフランスに宣戦布告、8月4日英国がドイツに宣戦布告、8月12日英国がオーストリヤに宣戦布告、日本は日英同盟との関係もあり,8月23日にドイツに宣戦を布告し,9月2日,山東半島に上陸した日本軍は,翌10月7日にドイツ領だった青島を占領,一方,巡洋戦艦“鞍馬”,“筑波”,“浅間”を主力とし,松村司令官の率いる第一南遣支隊は,同じくドイツ領だった南太平洋のマリヤナ,カロリン,マーシャル諸島方面に進出し,10月2日にサイパン,ポナペ,パラオ島等を占領して太平洋のドイツ艦隊を駆逐し占領しています。なお,これらの諸島は第2次大戦終結まで,日本の委任統治領になっていました。そうして,戦艦“明石”を旗艦とし駆逐艦“柏”,“杉”,“松”,“桂”,“楓”,“桃”,“柳”,“楠”,“檜”,“梅”,“榊”,“栴檀”,橄欖“などからなる第二特務艦隊はマルタ島を基地として地中海にまで進出し非同盟国(英国,フランス,ロシヤ,日本等)の商船護衛を担当しています。この中で,第11駆逐隊所属の駆逐艦”榊“は,大正6年5月3日,地中海で船団護衛中ドイツ潜水艦の攻撃を受け第一ボイラー室前部が大破,艦長,たまたま船橋に居た機関長,準士官全員の他,54名が戦死しています,幸い沈没は免れ,ピレウスで修理工事が行われました。第1次大戦に於ける最大の悲劇でした。第1次大戦の敵味方の関係は表2の通りで,欧州に於ける1914年頃の同盟国,非同盟国の地図を“The New Cambridge Modern History At1as”を基にして作成しました。(第2図参照)この図で国境線は戦争の推移によって変わっていることを了承下さい。


第2図 第一次大戦における欧州の交戦国


4. 武装商船  

この時代,武装商船という言葉が新聞などでよく取り上げられ,常陸丸は武装商船に改造されています。武装商船と言えば,帆船時代の商船はコロンブスのサンタマリヤの様に全部が武装商船でした。平和な時代になって,軍艦と武装のない商船が区別されるようになりましたが,戦時になると商船に大砲等を備えた武装商船が現れます。日本では,日清戦争の時に活躍した郵船の“西京丸”や日露戦争での“信濃丸”が有名で,明治末期に帝国海事協会(現日本海事協会)が全国的な募金運動により建造された義勇艦隊の“さくら丸”,“梅が香丸”,“さかき丸”は最初から武装商船として設計されていました。平和な時代になると大砲を積み砲員を乗せる必要はなくなりましたが,一次大戦で,“常陸丸”の事件の2年前に,山下汽船の“靖国丸”,日本郵船の“八坂丸”などがドイツ潜水艦に撃沈されており,大正6年3月7日に逓信大臣田健二郎より寺内正毅総理に商船武装の建議が出され,早くも翌々日には,内閣で承認され欧州航路の定期船や不定期船に武装を施す次のような依命通達が児玉秀夫内閣書記官長より加藤友三郎海軍大臣に出されています。

大正6年3月9日
別紙遞信大臣請議商船武装ニ關スル請議ノ通閣議決定相成候尚砲及砲員ノ供給其ノ他施設ニ封シテハ遞信大臣ト協議ノ上便宜取計相成度

 この措置は遅きに失した感じもしますが,一方では,武装商船は国によって入港が拒否される,武装しているのが知られたら積極的に攻撃を受けやすい,撃沈された場合に軍艦と見なされ救助を受けられないなどの反対意見も出ていました。不幸にして,常陸丸二世の場合は,攻撃したドイツの仮装巡洋艦”Wolff”の艦長によれば,“常陸丸”が船尾に大砲を備えており,砲口が“Wo1ff”の方に向いていたので,先制攻撃をしたと称しており,武装商船であったことが裏目に出てしまっています。しかし,当時の英国の統計では武装商船が撃沈されたのは,78隻中6隻であるのに対して,非武装船は100隻の内93隻が撃沈されていると報じられており,3月10日には早速,この通達が,英,仏,露,伊,米の大使館付武官に伝えられています。武装の内容は次の通りでした。

日本郵船ノ欧州航路船26隻ニ對シ各船尾ニ四吋七砲一門宛ヲ装備ス砲員ハ海軍予備兵曹,水兵3名トシ之ヲ社員トスルコトニ決定セリ爲シ得レハ本月 13日横浜發ノ宮崎丸ヨリ実施ノ筈本件ハー般ニ公表セス含置カレ度

 砲は旋回式でない場合は両舷各一門とし,弾薬は100発,四吋七砲としたのは英国の実績で当時のドイツ潜水艦の潜望鏡付近に砲撃を加えれば十分撃沈させる力が認められていたことと,ドイツ潜水艦と同じ口径砲を持たせるためです。事実,英国海峡で魚雷攻撃を受けた“讃岐丸”は8月15日この大砲で対潜攻撃を行い潜望鏡付近に命中させこれを撃沈させております。“讃岐丸”の宮沢清熊船長が郵船の近藤廉平社長に宛てた報告書にこの時の様子を描いた図面も添付されています。古い青図で不鮮明であるため修正して、第4〜6図に紹介しておきます。


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第4図 “讃岐丸”の避航



第5図 跳躍弾



第6図 命中弾


 魚雷発見ですぐ右舷に回頭,その後,魚雷は本船のすぐ後ろを通過して事なきを得,搭載していた大砲3発を発射,3発目が命中した様子が分かります。“鹿島丸”も英国出帆後,9月27日英国南端ランズエンド沖で攻撃を受け,応戦,16発目の砲弾を潜望鏡に命中させ危機を脱しています。当時の報道によれば,船尾の一門では船首方向の敵には対処出来ないので,“常磐丸”では船首尾に各一門設置されたとの記録があります。また,擬粧法と称して船体に迷彩塗装を施す研究も本格的に行われ,大正7年“河内丸”には第3図のようなどちらが船首か分からない様な迷彩塗装が施されていました。兵員は予備役の志願制とし,兵曹は三等航海士,水兵は甲板長待遇とされていました。彼らは潜水艦攻撃の経験がない者ばかりであったため急遽,潜水艦の知識,対潜の教育を砲術学校で受け,出航後実弾射撃訓練が行われています。常陸丸は,武装工事を行った22番目の船で,武装工事は砲架の下の補強と火薬庫の設置で神戸三菱により8月25日完工,兵員は,原田勝二郎一等兵曹(33歳),井手三郎(28歳),浪瀬筆吉一等水兵(27歳)でした。日本郵船社長より8月10日付けで内務大臣後藤新平に射撃訓練の許可願いを出し,防衛研究所図書館の資料では8月27日,門司出帆後対馬海峡で実弾射撃訓練が実施され,コロンボに向かっています。なお,後日談ですがこの3人は他の船員と共にドイツの捕虜となり終戦後無事帰国しました。なお,門司出航は9月1日としたものもありどちらが正しいか分かりません。


第3図 “河内丸”の迷彩(左側が船首)



表2 第1次大戦に巻き込まれた国と宣戦布告
戦争終結1918年(大正7)11月11日


5. 行方不明

5.1 行方不明になるまで

 本船は前記の通り,8月27日,門司出航,コロンボに直行しています。乗員は次の通りで,船員の中には砲手3名が含まれています。

船員:士官級21名
部員:96名(甲板22名,機関34名,事務40名)
船客:43名、一等17名,二等15名,特別三等8名,三等3名
合計:160名

 途中平穏な航海が続き,9月14臼シンガポール着,同30日マラッカ着,コロンボ向け出港,コロンボ到着,荷役と船客の乗下船が行われ,9月24日出港しています。次の寄港地は南アフリカのデラゴアで10月7日入港予定だったところ,9月26日より突然連絡が途絶えてしまいました。英国,フランス海軍にも捜索を依頼し,海軍の特務艦“日進”,欧州より帰国中の“鹿島丸”も捜査に協力しましたが杏として消息は掴めませんでした。当時の新聞では,海軍当局の談として,潜水艦による攻撃はありえず,触雷ではないかと報じています。普通,海上保険では,3ケ月以上船舶の行方が分からない場合は,全損と見傲され保険金が支払われます。郵船は東京海上に“常陸丸”として,627万円の保険を掛けていましたが,敵の攻撃により全損になった場合は,戦時補償法によりその8割が政府から支払われることになっており,“常陸丸”に戦時補償法が適用されるか問題になりました。

5.2 筑前丸出帆

 日本郵船は“,薩摩”,“矢矧”,“平戸”などからなる第二南遣支隊がマラッカ海峡付近に進出していたこともあり,海軍に捜査依頼を出し,独自に上海航路の“筑前丸”2,576トンを捜査船としてインド洋に派遣することにしました。ドイツ海軍が何時現れるか分からない危険海域であるため,武装工事が行われ,海軍の水上機2機も外からは判らないように搭載され,搭乗員としては,第2次世界大戦中,特攻隊育ての親と言われ,第一特務艦隊司令部付きに任じられた,大西滝二郎中尉を捜査飛行隊長として坂元宗隆,荒木保中尉,兵曹長1,の他下士官3,水兵8名,計15名が乗り込みました。工事が終わり,本船は11月27日に神戸を出港しました。大正6年11月28日の,東京朝日新聞は,次のように報じています。句読点はありません。

“筑前丸出帆
=常陸丸の大捜索船=
△  七ツ道具を提げ
△  昨日神戸を解纜

 無線電信小銃モーターボート四箇月分の食料探海燈飛行機山脇氏の日本刀此七ツ道具を提げて印度洋方面に行方不明になった常陸丸を捜査に出掛ける郵船筑前丸は愈二十七日午前十時神戸を出帆雲を掴むような困難な任務に就いた,食料は四箇月分の準備がしてあるが捜索豫定は二箇月半から三箇月位の見當で差當り神戸出帆後門司にて石炭を搭載し海峡植民地からコロンビヤ(注コロンボの誤りと考えられる)に直行同地で情報を得て南下しマダガスカル島付近一帯の海洋並びに無人島を普く捜し廻るのである出發に際し海軍側からは馬越飛行教官河東造硲大技士郵船會社から支店長代理勝山助役其他の見送りがあって乗組員一同元気旺盛に解纜したり(神戸電話)
 なお,山脇氏は第1次大戦の初期,大正4年12月末のポートサイド付近でドイツ潜水艦によって撃沈された,日本郵船の“八坂丸”の船長で,船客120,乗組員162名が全員救助され,その時の山脇船長の勇敢な措置により,日本船の優秀さを世界に示した事件でした。事件の詳細は,講談社発行,安部譲二の小説「時速14ノット東へ」に詳しく取り上げられています。大変面白い小説なので図書館で借りるなどして一読をお勧めします。

5.3 捜査飛行隊長 大西滝二郎中尉

 参考までに,大西滝二郎中尉は明治24年(1891)6月2日兵庫県氷上郡芦田村に生まれ,海軍兵学校卒業後,大正5年に設立後問もない,横須賀海軍航空隊の第六期飛行練習生となり,木製布張りのモーリスファルマン機で訓練を重ねた生粋の航空将校です。若い頃から,これからの戦争は戦艦ではなく,航空機が主体になると主張し,武蔵,大和の建造に反対,海軍では異端者扱いされていましたが,後に中将まで昇進,敗戦が近くなった昭和19年10月20日,ヒリッピンの第一航空艦隊司令長官に昇進しています。当時,制空権を米国に奪われ,航空機の大半を失い,起死回生の手段として残った海軍機による特別攻撃隊を採用して,2,000人以上の若者を出撃させました。終戦時は,軍令部次長となり終戦の翌日,昭和20年8月16日の深夜,官舎で割腹自決し55歳の生涯を終えています。戦後,特攻の産みの親として,多くの批判を浴びていますが,たまたま,第一航空艦隊司令長官であったためで,他の人が司令長官だったとしても,やはり同じ特攻戦術を採用せざるを得なかったものと思われます。“筑前丸”に乗り組み“常陸丸”の捜査を行った時は,26歳でした。

5.4 “筑前丸”による捜索

 “筑前丸”はコロンボで,日本海軍の援護を受け,一緒に出帆しました。“常陸丸”はコロンボからアフリカ東岸旧ポルトガル領のデラゴアに至る海域で行方不明になっているので,捜索範囲は第7図の様に,セイロンのコロンボ港からマダガスカル島付近に至までの広範囲な海域に及びました。座礁して何処かの島に擱座していることもあり,捜索は島に上陸して陸上での捜索と飛行機による空からの捜索が行われています。陸上の捜索はモルジブ諸島など英領の場合は、英国の了解が必要になり,英国人のいない島では、酋長の了解も必要になり,住民から“常陸丸”を見なかったか,何か特別な漂流物が無かったかを調べることになり,言葉の問題もあり非常に困難を極めました。一方、空からの捜索は,“筑前丸”に搭載された飛行機が海軍のモーリスファルマン複葉水上機で,ルノーの70馬カエンジンを備え,2人乗りで最大速力は110km,航続時間4時間,最高高度3,000mと,今から考えると玩具のような飛行機でした。従って,船から片道200kmの範囲まで飛び,船に戻って給油してまた別な方向に飛び立つことが何回も行なわれました。12月31日の大晦日の捜索では,大西中尉は坂元中尉同乗で島の上空から偵察中,エンジンが故障してインド洋上に不時着してしまいました。二次災害になるところでしたが,幸い近くにいた駆逐艦が発見し,飛行機とも救助されています。


第7図 “筑前丸”捜索予定海域
捜索に使用されたと思われるモーリスファルマン機は、最大速度110kmで、航続時間は4時間、最大高度は3000mとされている。航続距離は約400kmとなり、上図の丸い円が半径200kmの範囲を示す。



写真3 モーリスファルマン機の収容
華著な水上機なので波浪の高いときは離着水出来ない。デリックで収容する状況である


5.5 捜索結果

 “筑前丸”は英仏連合国軍艦の援助も受けてモルジブ諸島,マツヘ,モーリシャス,シャゴス諸島,アフリカ東海岸の他マダガスカル諸島をあまねく捜索したようです。スバジバ島(Suvadiva,地図によってはHuvaduと記されている)では原住民から,国籍不明の2隻の船が停泊していたことがあったこと,また同島の東南にあるガン島に3個の弾痕のある“常陸丸”二等室洗面所の鎧戸,火夫用の下駄1足,法政大学講義録1冊,ハラジュ島では,横浜三つ鱗印,松茸4斤と書かれた木片が流れついていたことが判明し,更に,別の島では鳳凰印練乳,東京池の端酒悦と商標のある福神漬などの空箱が漂着していたことが分かりました。
 これらは2隻の汽船が出帆後2,3日して漂着したとのことでした。これら以外の発見はなく,“筑前丸”は1月10日で捜索を打ち切り,コロンボ出港後16日間,1,885海里を捜索して1月12日コロンボに帰港しました。1月19日コロンボを引き上げ空しく帰国の途につきました。一方,英仏軍艦がモルヂブの酋長から得た情報では,次の物品が漂着したとされています。日本郵船会社船客規則1冊,草履20足, 布団2枚, 30ポンドの椰子1箱等でこれらは“常陸丸”のものであることは明白です。また,別に,英国の軍艦が木綿布団3枚,どてら1着,下駄21足,ローソク1箱,醤油樽, 麦藁製枕1個が漂流しているのを発見,収容し日本に引き渡しています。これにより“常陸丸”は難破したのか略奪されたのかまだ疑問だと報道されています。“筑前丸”で捜索に当たった,山脇氏,大西中尉などは帰国途中,“近江丸”に乗換,大正7年2月11日横浜に帰国しました。漂流物が発見されたモルジブ群島は,1965年独立した共和国で首都はマーレ島にありますが当時は英国領土で,赤道の南北に連なる多くの珊瑚礁からなる島々でインドの外れにあるため,省略されあまり詳しい地図は見当らず,海図を見れば良いと思いますが,人文社のクラウン新世界大地図にはモルジブ共和国が出ています。但し島の名前は昔と現在では違った所があります。The Times At1as of the Wor1dを参考にしてモルジブ群島付近の地図を作りました。図8を参照下さい。


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第8図 常陸丸遭難海域
(旧英領モルジブのスバディブ島付近と考えられる)


6. 常陸丸の最後

 常陸丸爆沈の報が入ったのは,行方不明が報じられてから約半年後の大正7年2月末で,インド洋で英国汽船5隻,帆船2隻,米国帆船2隻,スペイン汽船1隻と常陸丸を撃沈させ大暴れしたドイツ仮装巡洋艦 ヴオルフ(Wolff) が喜望峰を廻り,大西洋を北緯60度まで北上して南下,スカゲラク海峡を通過し,この間、英仏海軍の厳重な警戒網を潜り2月18日キール軍港に無事入港してからで,これが世界に報じられたのは2月25日のロンドンからのニュースでした。“常陸丸”はコロンボ出帆の二日後の9月26日14:32,待ち構えていたヴオルフに補足され,砲撃を受け,当初,“常陸丸”はヴオルフを発見した時には国旗が掲げてなかったのと商船の恰好をしていたので英国の商船と思っていたところ,突然砲撃を受け,全力後進避難しましたが砲弾は右舷後部と無線室に命中,火災発生,インド人の船客2名を含む13名が死亡しました。船尾の救命艇4隻は全部破損,残った1,2,3,5,7号の5隻に乗艇,避難しましたがヴオルフに拉致されてしまい生存者は全員捕虜になりヴオルフに移乗させられました。既に,この船には,以前に攻撃され捕虜となった各国の船客,乗組が貨物艙に収容されていました。“常陸丸”にはドイツ兵が乗り込み,拿捕してドイツ迄連行させる予定で暫くは同一行動をとっていましたが,11月8日,サヤデマルハバンク出帆後,船内に火薬を仕掛けられ全員が退船後爆破され,同日14:00、11年の生涯を終えました。沈没した海域は第8図を参照下さい。
 第9図は、ドイツ仮装巡洋艦Wo1ffの見取り図「印度洋の常陸丸」新小説社版に掲載された図面を訂正したものです。

6.1 仮装巡洋艦 ヴオルフ(Wolff)

 “常陸丸”を爆沈させたドイツの仮想巡洋艦ヴオルフは大正年(1907)ドイツで建造されたブレーメンハンザ社の貨物船ワルトフェル(5,600トン,速力13.5ノット)を改造したもので50口径6"砲1門 ,5''砲4門 ,小口径砲4門, 21"口径水雷発射管4門 ,更に水上機1機を搭載し大正5年11月末ドイツを出発,喜望峰から2月末インド洋に至り,通商破壊工作を行っています。攻撃を受けた商船は次の通りです。

(1)
(2)
(3)
(4)
(5)
(6)
(7)
(8)
(9)
(10)
(11)
2月29日
3月1日
日時不明
日時不明
5月
日時不明
日時不明
日時不明
8月
11月8日
11月
トルテラ(英)
シャムナ(英)
ワーズワース(英)
米国帆船
ワイルナ
ウインスロー(英)
バルガ
エンウール(英)
マツンガ
常陸丸
イゴツメンジ(西)
奪還
撃沈
撃沈
撃沈
撃沈
撃沈
撃沈
撃沈
撃沈
撃沈
拿捕


 仮装巡洋艦といっても外見は第9図の様に普通の商船と同じで常陸丸が商船と思ったのも無理はありません。


第9図 ドイツ仮装巡洋艦ヴォルフ
“インド洋での常陸丸”(新小説社版)に掲載されている図面を訂正したものである


7. 乗組員の帰国まで

 攻撃を受けて,即死,重傷を受け間もなく命を失ったのは,士官が1名,属員12名の13人で残りの全員はヴオルフに移乗させられ,第三艙口の第二甲板に収容されました。捕虜としての待遇はそれほど悪くはなく,食事は,“常陸丸”の司厨員が時々日本食の献立を作り,作戦時以外は白由に甲板上で散歩も出来たようです。富永船長は個室をあてがわれましたが断り,皆と一緒に生活したいと申し立てましたが,捕虜になっている他船の船長と同様,端艇甲板下の個室で苦悩に満ちた孤独な生活を送っていました。ヴオルフはその後南下して喜望峰を廻り,北上し,翌大正7年2月には酷寒のグリーンランドとアイスランドの間まで到達,スエ一デンの陸岸に沿って南下し,英仏海軍の監視の網をくぐり2月18日に奇蹟的にキール軍港に入港しています。捕虜となっていた乗組員は即座に各地の捕虜収容所に入れられています。11月11日ドイツ降伏により乗組員はやっと釈放され,士官達は大正8年3月3日,“伊予丸”で帰国,属員は5月中旬に“静岡丸”で神戸に帰りました。敗戦を控えてドイツでは物資が不足し,収容所では食事も十分に与えられず労働を強いられ随分苦労したとされています。このへんの事情は,長谷川伸著「印度洋の常陸丸」に詳しく取り上げられているので省略します。

8. 殉難海員の碑

 鶴見の總持寺には,第二次大戦で撃沈された“常陸丸”,“宮崎丸”,“平野丸”の犠牲者を悼む殉難船員の碑が大正7年に建てられ現在も残っているそうで、大本山總持寺を尋ねてみました。日本屈指の規模を誇る広大なお寺で,立派な本堂は昭和39年完成,二つの山門を潜り三松閣と呼ばれる壮大な総受付で若い修行僧に殉難会員の石碑は何処にあるのか聞いたら,あることはあるが何処かは分からないと言われました。案内図を貰いましたが,石碑までは出ていません。多分この辺りだろうとのことで広大な敷地をあちこち探したら,大晦日にテレビで毎年放映される除夜の鐘の鐘堂の横の林の中にあることが分かりました。先ず,新緑の木立の中に幅が約1.5メートル,高さ約4.5メートルの,大きな石碑が見つかりました。表には“歐州戦亂殉難會員之碑"と刻まれており,裏面には”宮崎丸“の殉難者3名,常陸丸”5名,“平野丸”43名の氏名が刻まれています。“常陸丸”船長の富永清蔵の名前はありませんでした。日本郵船株式會社郵司同友会が大正7年10月4日建立となっており,寄進者は“豊岡丸”,“加賀丸”等54隻の船名と山脇武夫等になっています。富永船長の名前が無いのは奇怪しいと思っていると,近くに別の大きな石碑があることが分かりました。近ずい調べると,これは表面に“殉難海員之碑''と横書きされ,下に”八坂丸“から”徳山丸“までの5隻が撃沈された日時と海域が細かい漢文で刻まれていました。裏面には各船の犠牲者の名前が彫ってありますが,”常陸丸“では,富永船長以下17名に増えています,これは,直接戦闘で亡くなった方々の他に,捕虜として収容中に死去された方々の名前も追加されたものです。建立は大正8年10月,日本郵船株式會社となっていました。そうして,関東大震災で倒壊したため,大正12年10月再建立との添え書きがありました。2基ともあまり手入れがしてないらしく,大分荒れ果てた石碑といった感じで,両方の石碑の表面に彫られた碑文は写真では読み難いので第10,11図に書き直して見ました。


第10図 郵司同友會の碑文



第11図 日本郵船株式會社の碑文



写真4 郵司同友会の碑



写真5 日本郵船株式会社の碑


 なお,これらの石碑の他に日本,郵船関連の“小松原定吉, 坂本鍵造双魂碑''と“巴野莱吉氏の像"が建てられているのを見つけました。巴野兼吉氏の胸像は大分傷んでおり横の碑文は殆ど読めなくなっていました。御三方とも昔の日本郵船の功労者と思われますが,強者どもの夢の跡といった感じを受けました。

8.1 富永船長の最後

 ヴオルフの攻撃を受け,13人の犠牲者を出し,自分の船が爆沈された後の富永船長の苦悩は計り知れないものがありました。船が大西洋を北上し北極圏に近ずいていた2月7日夕方,何時ものように皆のいる第三船艙に来て,碁を打ち,3局とも勝った後,夕食前に姿を消してしまっています。ドイツ水兵も含めて船内を捜索しましたが何処にも見当らず,投身白殺されたとされています。遺留品の中に,11月1日付けの一等航海士宛の遺書が発見されていますので,長くなりますが全文を掲載いたします。

逃走の難きを信じて,船客並びに各員の生命を重んじ,かかる處置を執りしが, 敵の砲撃甚だしく,親愛なる部下の多数と並びに信頼を蒙りたる船客と, 多数に最後を遂げしめ,剰え船客と諸君とに不安の生活を永らく送らしむ, 信に申譯無き次第,尚この上,重大な責任を貴下に負わしむるは,情に於いて忍び難きも,死者遺族負傷生存者に對し申譯無之ければ,斯く幹部の一艦に集りおるを期とし,女々敷く自裁を敢てし,以て遺族に申譯せんとす。死屍に鞭うたるるは覚悟の前,何卒死すべき秋に死せざりし小生の苦衷を察せられ, 小生に代り部下を統一し,各幹部と協力,此の後の問題を解決し,一日も早く御帰國相成度,祈上候。時計と写真は長男に渡し下され度,願上候。貴下の健康を祈る。
十一月一日
木村庄平殿
富永清蔵


 木村一等航海士は,その後,“龍田丸”の船長になり,太平洋航路の木村船長として有名な方です。
 富永清蔵船長は,山口県出身,事故当時は46歳で“常陸丸”による4回目の欧州航路で,商船学校は山脇船長の一年後輩でした。横浜を出帆する前に,友人に
“俺の友達は皆自分で家を建てた,俺も神戸に小さい土地を買って何時か家でも建てたいと思って居たが子供は多し其れに危険な任務に付いて居り何時死ぬか分からぬから先の事を考えると金を費って家など搾へ安閑として居る譯には行かぬから見合わせることにした"
 と話しておられたそうです。山縣文蔵海軍中将の娘さんである夫人げん子さん,当時38歳,と子供6人で神戸に住んでおられました。

8.2 その他

8.2.1二度乗船した船員゚コ野茂作

 常陸丸二世を調べていたら,日露戦争当時の,常陸丸一世に乗船し,二世にも乗船していた船員がいることが分かりました。この人は,撃沈されて捕虜となり,ヴオルフがキール軍港に帰国後,捕虜収容所で他の船員と同様ろくな食事も与えられず,約9ケ月にも及ぶ重労働をさせられた後ドイツ降伏により釈放され,“静岡丸”で大正8年5月無事帰国しています。彼は当時31歳,佐賀県出身で,佐賀中学卒業後,日本郵船に入社,撃沈された時はストーキーで(Store Keeper,ボースンに次ぐ甲板部属員の上層部員,次席ボースンとも呼ばれている)浦塩艦隊に撃沈される前の航海で,セーラーとして“常陸丸”一世に乗船していました。幸運な人でした。

8.2.2 女性乗組員

 外国船では,女性の乗組員は珍しくなく,以前に検査をしたソ連の貨物船では,局長をトップに多数の女性船員が乗り組んでいました。日本船でも客船では女性船員を乗せたこともありました。しかし、大正の時代に常陸丸二世にスチュワーデスとして女性が乗船していたのには驚きかした。もっとも、当時の日本郵船の欧州、米国航路の船は貨客船で多数の乗客が乗っていたので、ドクターと共に看護婦も乗船していたかもしれません。總持寺の殉難船員之碑の裏面で,平野丸の犠牲者124名の中に,外岡シカという名前がありますが,多分女性と思われます,ただし,同じ貨客船の八坂丸には女性の乗組は名簿には見当りませんでした。常陸丸の女性乗組員は,鯨岡かめ女史で当時49歳,山梨県出身,18歳の時に横浜に出て英国病院で看護婦をしており,日本郵船に入社してからは“春日丸”,“三島丸”,“香取丸”を経て“常陸丸”に乗り組み災難に遇ったものです。写真で分かるように,おしやれで進歩的な女性で,英語は堪能,負傷者の看護にも尽力されたそうです。大戦終結後、無事帰国しています。


写真6 常陸丸船上の富永船長と家族
お子さんは3人しか写っていない大正7年3月3日、東京朝日新聞より



写真7 鯨岡かめ女


9. 終わりに

9.1 常陸丸の図版

 明治から昭和初期にかけて船の油絵を沢山描かれた,山高五郎氏の絵を引用させて頂ました。彼は,明治42年に東京大学造船科を卒業されており,「船の常識」等の著作で有名な山口増人氏と同期生です。卒業後三菱長崎に就職され,「日の丸船隊史話」と戦後に加筆された,「図説日の丸船隊史話」は当時の日本の造船,海運を知るに当たって唯一の貴重な文献で,自筆の明治丸,常陸丸,西京丸などの油絵と所蔵されておられた多くの写真が掲載されています。三菱を退職された後は,東京計器製造所(現トキメック)で航海計器等の開発に当たっておられます。お子息さんに当たる,山高登氏から色々な助言を頂ましたことを紙面をかりて御礼申し上げます。実は,山高五郎氏の奥さんは常陸丸一世で犠牲になられた,輸送指揮官須知源二郎中佐の娘さんであったので,(3)で取り上げた,日露戦争後,漂流していたのを発見された,常陸丸唯一の遺品である水桶を保管されておられ,その後,此の水桶は須知中佐の原隊である近衛歩兵第一連隊に寄贈されましたが,第2次大戦で焼失してしまったそうです。
 山高登氏は有名な版画家で2年おきに銀座で個展が開かれており,年末になると山高登木版画集と題したカレンダーも市販されています。非常に繊細な版画で日本各地の昔の風景を描いた作品が多く,必ず,人物が添えられていて,ゴヤの初期のタペストリーの原画の様に画面にストーリーがあり心温まる作品です。山下公園にある氷川丸を題材にした作品も見せて頂ましたが,船の版画を描くと,親父(山高五郎氏)から此処がおかしい,これが抜けている等と文句を言われたそうです。

9.2 常陸丸二世

 常陸丸二世に就いては,長谷川伸氏著の「印度洋の常陸丸」が2種類出版されています。昭和37年,新小説社発行の単行本と昭和55年に中央公論社発行の文庫本ですが,内容は遭難から,捕虜生活,帰国までが取り上げられており同じですが,文庫本の方は写真,図版が省略されており,単行本のほうには,長谷川氏がどの様にして入手されたのか分かりませんが,ドイツ仮装巡洋艦ヴォルフの乗員が撮影したとされる攻撃を受ける直前の常陸丸,洋上接舷中,沈没直前の様子など沢山の写真が掲載されています。後者は図書館にありますが,新小説社発行の本は入手が難しく,日本造船学会の終身会員でいらっしゃる,山口為也大先輩より拝借させて頂きました。山口先輩は,期せずして,常陸丸二世の富永清藏船長のお孫さんに当たる方です。紙面をかりて厚く御礼申し上げます。

9.3 駆逐艦榊の修理工事

 本稿とは関係がありませんが,第1次大戦中,地中海に派遣されていた,第二特務艦隊所属の駆逐艦“榊”が船首部に雷撃を受け,大損害を受けています。修理工事がピレウスで行われていますが,同型艦をマルタのドックに入渠させ,それに倣って損傷部の各種ブロックを製造,ピレウスまで輸送して,修理が行われました。ブロックエ事の先駆けであり図面を含めた修理工事の詳細が防衛研究所図書館にありますので,興味のある方はご覧下さい。


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付録1 日本船名録 明治43年版



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付録2 Lloyds’ Register Book 1909~1910 Edition


参考図書
「印度洋の常陸丸」1長谷川伸著, 新小説社版,中央公論社版
「特攻長官・大西滝二郎」: 生出寿, 徳問書店
「悲しき太平洋」: 戸川幸夫,光人社
「特攻の思想」1大西滝二郎伝, 草柳大藏著, 文芸春秋社
「海軍航空隊全史」1朝日ソノラマ
「20世紀の歴史」:14巻 ,平凡社
「船舶百年史」: 有明書房
「日本郵船50年史」
防衛研究所資料欧州大戦
東京朝日新聞, 萬朝報など当時の新聞




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