滑空訓練

戦時中、中等学校で実施された滑空訓練のことを検索したが、殆どこの関連の記事は見当たらず経験した人達も老齢化しているので敢えて取り上げることとした。

1. 前置き

筆者は終戦時、北朝鮮の日本海に面した清津にあった清津中学の4年1)でした。ここでは日本人と現地人の学生が半々学んでいた中学校で、敗戦色が濃くなり学校でのんびり勉強などせず予科練等の軍関係の学校に進むよう、この年、中学校は5年制だったのが4年制に短縮され、3月末には4年生と5年生が同時に卒業しました。

3年になり先生から強制的ではなかったが三級滑空士の資格を取るよう勧められました。夏休み中、半月ぐらい飛行場で寝起きして毎日訓練を受け資格を取っておけば予科練や航空士官学校に入ってからの教育が楽になるというのが目的でした。多くの学友が訓練を志願し筆者もこれに応募しました。
当時の滑空士の資格は1級から3級まであり、初心者は3級、この資格が与えられると、上の資格として自動車で索を引き操縦席には風防のある機種(セカンダリー)による更に高い空域での訓練、最上級は1級(ソアラー)で飛行機で索引し飛行機と同じ高度での飛行資格が与えられていました。

当時の官報等を調べないと正確なことは分かりませんが、多分ミッドウエーでの敗戦以後、中等学校には文部省から“文部省型初級滑空機”(プライマリーと呼ばれ、操縦席の前に支柱のない“駒鳥型)が支給されこれに乗り校庭で地上滑走の訓練が行われていました。ただ、校庭は狭いので滑空士の資格を取れるような空を飛ぶ訓練は出来ませんでした。

 

 

    図1.文部省型プライマリー

注1) 終戦後占領軍であるアメリカの強制で多くの日本の慣例がアメリカ式に改められ、それまでは日本の学制は小学校が6年(大きい小学校ではこの上に2年制の高等科があった。)小学校の上は5年制の中学、女学校があり、さらに進学したい者の為に3年制の専門学校、大学に進学したい者のためには3年制の高等学校がありましたがこれが現在の6,3,3,4制の改められたわけです。

其の他色々な日本の戦前の体制がアメリカ並みに改正されましたがその中で日本が旧制度の存続を強く要望したものの一つは左側通行でした。アメリカは右側通行を強要しましたが結局左折通行を受け入れました。英国が左側通行であることも影響したのかも知れません。

2.滑空訓練

2.1 時期

 多分、3年になった頃と思いますが、教官注2)から20数名の生徒が指名され、強制的ではありませんでしたが、飛行場で行われる滑空訓練に参加する要請がありました。我々三期生(16歳前後)は約20名が清津飛行場で合宿訓練を受けました。教官は陸軍航空隊の崔中尉でした。“貴様たち、操縦桿はたまんご(卵?)を握る気持ちで握れ”と口喧しくしておられたことを今でも覚えています。時期は授業のない夏休みだったような気もします。

 

注2)当時は中学校には配属将校と呼ばれた陸軍の中尉が配属され、校長に次ぐ権限をもっていました。授業の一環として軍事教練が行われていた。3年になると各自に4キロ近い重さの38式歩兵銃が持たされ空砲時には実包による射撃訓練も行われており、学校には軽機関銃も数丁ありました。機関銃は3人で操作しました。

2.2 日課

宿舎は飛行場の片隅に建てられたバラックの建屋で、煎餅布団に毛布と枕が与えられ雑魚寝でした。勿論、オンドル3)部屋ではなかったが寝ていて背中が寒かった記憶がなかったことから、季節は夏だったと思われます。毎日の日課は古いメモによると、次の通りでした。

5:30 起床

5:30 洗面、清掃

6:20 点呼、朝礼、体操

6:30 朝食

7:20 出発

8:30 訓練開始

17:00  訓練終了

17:20 帰着

17:30 夕食

18;00 学科または入浴

20:00 点呼

20:30 消灯

注3)朝鮮の床暖房

 

出発から訓練まで1時間以上ありますが格納庫まで機体を担ぎ駆け足、到着してから翼の張線の緩みのチェック等機体の点検をして、滑走路まで皆で担いで引き出しゴム索の整備、その日の訓練内容の指示等がありました。昼食の時間がありませんがきっと握り飯を持って行って訓練の合間に食べた様です。今から思うと当時は随分早起きでした。

2.3 食事

訓練の開始は15日になっております。多分1944年と思いますが、8月15日は火曜日で、火曜日から訓練が始まったとは考えられず、開始は月曜日からと考えるのが妥当と思われます。この年で15日が月曜なのは5月だけなので訓練は夏休みではなく5月だったかもしれません。

夕食のメニユーらしきものが書いてありますので、そのまま紹介します。イミンスと云う魚が出ていますが、どんな魚だったか覚えていません。確か漁獲されても捨てられていた様な魚だったと思います。

アルミの容器に入れられたご飯は白米ではなく、麦、高粱が入っていた筈で随分粗食だったことが分ります。

15日 焼きイミンス、明太子、若布汁、

16日 焼きイミンス、白菜カレー

17日 若布汁、明太子、芹

18日 白菜汁、明太子、白菜味噌和え

19日 白菜/豆腐汁、豆腐と白菜味噌和え

20日 若布汁、芹等のホワイトソース、豆腐、

21日 若布、豆腐、メリケン汁、

22日 若布汁、湯豆腐(半分)、芹天麩羅、

23日 芹汁、他

筆者は23日墜落して首になった為以後の記録はない、

2.4 訓練内容

訓練で使用された機種は、操縦席の前に支柱のある「文部省型」で、着座して背嚢を背負う格好で肩にベルトを掛け、左手で支柱を持ち、右手で操縦稈を握るようになっていました。訓練の順序は次に通りでした。

2.4.1 左右の安定

最初の訓練は機体を風に立てて翼端を放し、(車輪がなく、そのまま置くと翼端が地面に接します)機体が右に傾くと操縦桿左に倒し、左に傾くと右に倒して常時機体を水平な位置に保つ訓練でした。何回やってもこれが上手く出来ない人は、不適正として翌日からは訓練はさせてもらえず、涙をのんで帰宅させられてしまいます。これが出来ないと後で滑空訓練に入った際、機体が傾き接地で翼端が地面に当たり機体は翼端を中心にして回転し主翼をめちゃめちゃに壊してしまうからです。

 

     図2 左右の安定

2.4.2 地上滑走

左右の傾斜の調整が出来るようになると、いよいよ機体が動く状態での訓練に入ります。太さ25mmぐらいの左右のゴム索を機体が浮き上がらない程度に引っ張り機体後端に付けられたロープを外すと、機体はパチンコの石の様に芝生の上を滑走します。図の番号は、搭乗の順番で1が搭乗者,2は機体後端のロープの保持者、3は翼端保持者で後はゴム索を引っ張る連中です。飛行が終わると登場した者は23の位置でゴム索引きになり2番が搭乗者、3番が後部のロープ保持者になります。準備ができると、1から5番の順に「準備よし」と叫びます。続いて教官が「放せ!」と号令を掛け、2の担当者が機体後端のロープを外すと機体は早い速度で前に突進します。ショックで体が後ろに流れ、操縦桿が僅かでも引かれると機首が上がり、後で教官からビンタをくらうことになります。これは地上滑走中の左右の安定を保つ訓練です。

 

図3 訓練生の配置

 

2.4.3 滑空

始めは50cmぐらいの高さの滑空で、ちょっと飛んだと思ったら、もう接地です。上達するにつれて高度が3m、5mの順で高度が上げられます。この種のグライダーはプライマリーと呼ばれ、滑空比は1対10でした。風の状態にもよりますが、1m上昇すると10m先まで飛ぶことになり、訓練中の最大高度は約10mだったと記憶しております。

この間の練習の目的は次の4項目です。

@飛行中の機体は風により、しじゅう左右に傾くので操縦桿を左右に傾けて左右の安定を保つ訓練。

A指定の高度に達した時に、操縦桿を僅かに前に倒して接地の姿勢に入れる訓練。

B滑空が終わりに近くなり、高度が下がり地面に近ついた時点で、操縦桿を僅かに引き、機種を上に向け三点着陸の姿勢を作る操作。

C飛行方向が風で変わるので、足で方向舵を操作し、場合によっては操縦桿を傾けて横滑りをしないで真っ直ぐに飛行するよう、方向舵の操作。

 

ここで、Aに就いては、既定の高度に達した時に教官が「滑空角」と叫ぶので、操縦桿を押します、押し過ぎると機首を真っ逆さまにして墜落します。Bの時点では「接地」と号令が掛かるので操縦桿を僅かに引くことになります。引き過ぎると失速して墜落、教官から猛烈なビンタをもらい、即座に不適正とされ首になります。従って、訓練が進むにつれて仲間はだんだんと減っていき、一週間もすると最初は片側でゴム索を引く者が10名以上だったのが5名位になり、一生懸命にゴム索を引かねばならず、着地した機体を担いで元の位置に運び、ゴム索も元の位置に戻す作業で汗だくになり、搭乗の順番もすぐ廻ってきて重労働です。訓練では何故か着陸とは言わず接地と云っていました。

 

図4 上昇から接地まで

3. 追放

十日目の食事のメモが無いので、不適切を宣告され追放になったのは九日目の様です。その日の訓練は高度5メートルぐらいだったと記憶していますが、順番が廻ってきて、操縦席に座り、飛び立つ瞬間に突風が吹いて来ました。突然、機体は機首を上げて急上昇、高さ10メートルぐらい上がり、下を見ると皆が小さく見え、教官が「操縦桿を押せ」と怒鳴っているのが聞こえました。まだ体験していない高度だったので、すっかり慌ててしまい、操縦桿を一杯に倒してしまいました。突然、急降下をして、あっという間に真っ逆様に墜落、機首を地面に突き刺してしまい、頭を支柱に嫌というほど打ち付けました。駒鳥型で背中のベルトが外れたら頭をもろに地べたに打ち大怪我をしていたと思います。案の定、「馬鹿者、あんなに操縦桿を倒す奴があるか!」と猛烈なビンタの雨を受け、悔しながら遂に首になってしまいました。この頃はもう数十人しか残っていなかったので、それ以上を首にすればゴム索を引く人数が足りなくなり首になったのは私が最後ではなかったかと思います。そうして、残った連中は訓練を続け、見事三級滑空士の資格が貰えたと思います。誰々が免状を貰ったか、松岡、新宮、文、李君達でした。先だって先輩の妹さんにお会いした際、グライダーの話が出て、兄上は見事の三級滑空士の資格を取られたとのことでした。


短い期間の訓練でしたが、航空機の操縦で一番難しいのは着陸だと思いました。離陸は風に向かって全速力で前進すれば自然に機体は上昇、木星号や最近のマレーシヤ航空の事故は別にして、水平飛行はただ飛び続けるだけで、着陸時の事故が多いのもうなずけます。

滑空機による世界記録は、飛行距離がドイツの1,460.8kmで青森で飛行機からの索を離れ博多までに相当する距離を無動力で飛んだことになります。最高高度はアメリカが立てた12,894m、当然、酸素マスクを使用してのことだと思いますが操縦席の気圧保持はどうなっていたのでしょうか?機種は当然ソアラーです。





以上、体験した方々も多く他界され滑空訓練のことを知っている人も減ってきているので敢えて駄文をしたためました。

(7/2014)