牛を殺さない闘牛の話
ポルトガルの闘牛


1. 闘牛の起源

 闘牛士の生命をかけた猛牛との闘い,この闘牛が行われているのは,スペイン,ポルトガルの他,フランス南西部と中南米である。メキシコ,アルゼンチンの闘牛は,当然のことながらスペインから伝わったもので,ブラジルの場合は19世紀の初め頃ナポレオンの侵入により,当時のドンジョアン6世がブラジルに逃れた際,側近の闘牛士たちも一緒に王に従い,ブラジルに闘牛を伝えたものと考えられる。百科辞典によると,“古代ローマでも猛牛と他の獣とを戦わせる遊技があったが,12世紀ごろスペインに移入され,18世紀初頭に本格的な職業闘牛士が生れた。今日,人と牛とが戦う闘牛は,スペインが有名で国技とされている。”と書かれている。確かに,ローマ帝国の影響はピレネー山脈の西にも及んでおり,イベリヤ半島の各所にローマの遺跡がある。スペインの西北部ラコルニヤ市の近くにある灯台は,ローマ時代に建てられた世界最古の灯台といわれており,ポルトガルのコインブラ市の近くにもローマの遺跡が保存されている。これらの中でセビリヤの近くのイタリカ,ポルトガルとの国境に近いバダホス市郊外のメリダには,外壁こそないがローマにあるコロシアムと同じような闘技場が残っている。このことは,当時イベリヤ半島でもローマ人による猛獣との戦を見物する興行が行われていたことを示している。しかしこれらの遺跡の中で,最も新しいと考えられるコインブラ近くのコニンブリガ遺跡が3世紀のものであり,12世紀ごろ闘牛の起源がスペインに伝えられたという説明は,10世紀近くの空白があり,納得がいかない。


写真1 ラコルニヤの灯台


 スペインの歴史を緒くとロ一マによる支配のあとゲルマン民族の侵入があり,ゲルマン人による西ゴート王国がマドリ(マドリードは英語で,スペイン語ではマドリと呼ぶ。序にスペインも英語で,本未はイスパニヤと呼ぶべきである)の近くのトレドを首都として建国されたのが507年となっている。700年代に入り, 回教徒がジブラルタル(スペイン語ではヒブラルタル)海峡を渡って侵入し,現在のスペイン,ポルトガルを占領,西ゴート王国を滅ぼし,コルドバを首都とする西イスラム帝国が756年誕生,ピレネー山脈から西は回教徒の国になり,当時,ヨーロッパで最も文化の進んだ国として繁栄を続けた。現在,スペイン,ポルトガルにあるローマの遺跡から発掘される当時のローマ人の彫像は,多くが首から上が無くなっており,これは回教徒によって首が破壊された為とされている。11世紀頃になり,北部に潜んでいたゴート族による回教徒追い出しの戦 (Recconquista) が始まり,回教徒は暫時北から南に追いやられ,回教徒の支配から完全に脱して現在のスペインの母体が生れたのが,何と,コロンブスが新大陸を発見した1492年である。コニンブリガ遺跡このことからしてもローマの格闘技と現在の闘牛とを結びつけるのは,どうも無理のような気がする。


写真2 セビリャ郊外にあるイタリカのローマ闘技場遺跡



写真3 ポルトガル国境近くにあるメリダの遺跡



写真4 ポルトガル北部のコニンブリガの遺跡



写真5 首のない彫像


 西ゴート王国の時代、回教徒による西イスラム帝国の時代に猛獣あるいは牛との格闘技が温存されていたとは考えられない。ただ,セビリヤにしてもマドリにしても,さらにポルトガルのリスボン(ポルトガル語ではリシュボア)にしても,闘牛場の建物は回教の建造様式が採用されている点から考えると、闘牛の起源は,西イスラム帝国と何らかの関係があるのかも知れない。現在,スペインやポルトガルの地方で,ある時期に町の中で若者が牛を遺いかける行事があり,スペイン東北部のパンプローナ,ポルトガルのサンタレーンの祭は有名である。これらを考えると闘牛の起源は回教徒時代に牛を追いかける行事があり,それが徐々に現在の闘牛に発展していったと考えるのが妥当なような気がする。一方,ポルトガルの文献によれば,ポルトガルとしての国家の成立 (1143年スペインより古い) 前から,闘牛はポルトガル原住民であるルスタニア人の生活と関連があったとされ,回教徒が支配していた5世紀頃,彼等はルスタニア人の闘牛に関心を持つようになったとされている。当時は犬を沢山従えて野牛を投げ槍で殺すことが行われ,興行的な色彩はなかったようである。一方、ポルトガルの別の文献によれば,闘牛発生の地は地中海のクレタ島で,BC14世紀頃から素手で牛に組つく格闘技が行われていたともされており(これは後で述べるPegaをさしているようである),結局,諸説粉々でどれが正しいのか判らないのが実体のようである。フランス南部の何処で闘牛が行われているか判らないが,スペインとポルトガルの各主要都市の地図で,現在闘牛場のある町を調べてみると1図のとおりである。人口の少ない山地を除いて到るところの都市に闘牛場があり,大西洋に浮かぶカナリヤ諸島のテネリフェにまで設けられており,これらの国の人々が如何に闘牛が好きであるかが判る。


写真6 マドリの闘牛場
マドリにはこの他にもう一つ闘牛場がある



写真7 セビリャの闘牛場



図1 スペインとポルトガルにおける闘牛場のある都市
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2. 闘牛は何日行われるか?

 スペイン,ポルトガルに行けば,いつでも闘牛が見られる訳ではない。期間は春の復活祭の日から,地方によって違うが,10月末の間で冬は見られない。スペインではこの期間の日曜、祭日のみで,午後5時あるいは5時半から開始され,大体2〜3時間の間に3人の闘牛士により6頭の牛が殺されることになる。マドリの場合は午後の観光バスに組入れられているので,初めての時はこれを利用すると比較的良い席が準備してあり便利である。但し,終ってから闘牛場から吐き出される大衆にまぎれて,自分達の観光バスを捜すのに骨が折れる。観客の年令制限はなく子供連れでも見物ができる。ポルトガルの場合は,期間はスペインと同じであるが,日曜、祭日の他に木曜にも興行があり,木曜日は開始が夜の10時なので,帰りの足が心配になる。ただし,ポルトガルでも3月の終りから9月末まで夏時間になり,時計を1時間進めるので,夏になると夜9時過ぎても明るく,10時といっても夕方といった感じである。もっとも日曜は昼食後3時頃から始まる。ポルトガルでは食後に闘牛を楽しみ,スペインでは闘牛見物の後で夕食ということになる。血まみれになって殺された牛を見て,大声をあげて泣いていたアメリカの若い女性がいたが,さすがに闘牛の後で血のようなサングレアを飲み,ステーキを食べる気にはならない。

3. 牛を殺さない闘牛

 前置きが長くなったが,スペインの闘牛については日本でもいろいろな本で紹介されており,観光案内には必ず取上げられており,マドリの場合は日本語(といってもローマ字なので読み難いこと甚だしい)の入った冊子も売られている。従って,殆ど日本では紹介されていないポルトガルの闘牛を取上げてみる。


写真8 国境、踏切の向う側はスペイン
第一の踏切のゲート前でパスポートに判を押してもらい出国手続をしてゲートを通過,第二のゲートの手前で再び入国のスタンプを押してもらうと,そこはもうスペインで,時計を1時間進め,銀行でお金をペセタに変えれば万事OK, 但し、現在はECのお蔭でこんな面倒な手続は不要になっているが、時差の関係で時計を一時間調整しないと後で困る。


 先ずスペインとの大きな違いは,最後まで牛を殺さないことと,牛の角に危険防止の為に角の形に合わせて皮の紐で作った円錐台の形をしたカバーがつけられていることである。ポルトガル人と闘牛の話をすると,彼等は必ず“スペイン人は残酷だから牛を殺すが,ポルトガル人は優しいから絶対に牛を殺しません。”という科白を聞かされる。両国は土地続きで人種もあまり変らず言葉もかなり似ているが,体格,顔つき,考え方は大分違っている。確かにポルトガル人の方が一性格はずっと温和である。
 最初に日本を訪れたのがポルトガル人ではなくスペイン人であったとすれば,インカ,マヤ文明が亡ぼされたように日本の文明は亡され,メキシコ,チリ,フィリピンのような状態になっていたであろうということはよく言われる。1936年から1939年のスペイン市民戦争で,スペイン人同士が国内で血を流し,60万人近い犠牲者を出し,フランコ死後の現在においてもバスコ地方ではテロが頻繁に起っていることは,日本でも報道されている。それに反し1974年のポルトガルの革命においては、僅か数人の死者が出た程度で無血革命といわれている。これらの違いが闘牛にも現れているのであろう。

図2 マドリ東北50キロにある人口僅か26,550人の小都市 ガラダハラ
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図の右下の円印が闘牛場


 もっとも,闘牛で牛を殺すことを禁じた法令が定められたのが18世紀前半,時の有名な宰相ポンバル侯爵によるもので,それまではスペインのように牛は殺されていた。ただし18世紀頃のスペインの闘牛が現在のものとは大分違っていたことは,ゴヤの絵によっても判るが,当時のポルトガルの闘牛がどのように行われていたかは手持ちの資料がないので判,らない。さて,前置が長くなりすぎたのでここらで本題にもどり,ポルトガルの代表的な闘牛であるリスボンの闘牛に入ることとする。
 スペインの闘牛場は,バルセロナ,セビリヤ,バレンシア等を除き殆どが町はずれにあるが,リスボンは町のド真中にある。既に切符はホテルに頼んで入手済,パンフレットによれば一番良い席が約3000円,一番安い席では1000円以下,カジノで大金を浪費することを思えば安いものである。

(1) 闘牛場まで

 地下鉄に乗って何でも見てやれの根性で,地下鉄で行くことにした。丁度ホテルの前に駅があり,地図で見るとそこから4つ目の駅から地上に出たところが闘牛場になっている。リスボンの地下鉄は,ローマ字のDを90度回転させた屋根のまるいロンドンの地下鉄のような形をしているが,6輌編成の車体はロンドンより大きい。第三軌道より集電されている。開業が比較的新しいためか,パリ,マドリ等のような古色蒼然とした車はなく椅麗である。営業路線は延べ約13km,渋谷から浅草までといった程度であろう。(万博後の現在はもっと延長されているかもしれない)メトロポリターノの頭文字を取った青色のMの標識が見つかれば,これが地下鉄の入口である。階股を降りて入の後をつけて行くと,切符の自動販売機が改札口の近くに見つかる。日本と違って販売機の表示は引算式になっており,コインを入れるとその分だけ数字が減っていき,所定の企額に達すると表示は0になって切符が出てくる。料金は昔の東京の地下鉄と同様,全線均一なので楽である。蛇足ながら,スペインでは地下鉄,バスなど交通機関は夜10時を過ぎると割増しになり,日曜、祭日も平日より料金が高くなり,地下鉄の切符の販売機も休日用のものは別になっているのは合理的 ? で面白い。改札口に入る前に,念の為,闘牛場のある駅の名前とその線の終点の駅名を頭にたたき込んでおく。これが知らない町で電車やバ又に乗る秘訣である。ホームに入って電車が来ても,行先が終点の駅名と違っていればとんでもない所に連れていかれることがある。改札で切符に鋏を入れてもらい,希.望するホームまでは壁の票識に従って階段やエスカレーターを降りればよく,迷うことはない。頭に刻み込んだ駅名がついた電車が.轟音を発してホームに入ってくれば一安心,第一の関門は通ったことになる。白動扉が開き乗り込むと何の合図もなく発車する。.車内放送も次の駅名をブッキラ棒に流すだけ。これも騒音の中では聞き取り難いので,目的地に着くには車内の路線図を参考に,あと幾つ目の駅かを一つづつ数えるより仕方がない。車内では,珍しい東洋人が乗って来たことで,我々外人は衆人監視の的になる。町を歩いていても何となくジロジロ見られる感じで,馴れるまては見られているということだけで疲れてしまう。いつか動物園に行ったときのとである,地方から団体で来たらしい小学生の一群と一緒になってしまった。彼等は動物よりも日本人の方が珍らしいらしく,象や虎はそっちのけでジロジロ見るので,
“俺は動物園の動物しゃないんだ ! 動物園に来たんならもっと真面目にライオンやラクダを見ろ。”
と言いたくなる程だった。4つ目の駅に着き,ホームの駅名を確認して下車。この後は一再び人の後について行けば何処かの出口に着く。


写真9 各種の切符


 もっとも路線の多いタ一ミナルの駅では,乗換えの別なホームに出て面くらうことがある。出口は一方通行のゲートがあり,使い捨ての切符を入れる箱が置いてあるだけで,正に昔の東京の地下鉄と同じ感じである。地上に出るとすぐ目の前に大きな闘牛場の建物が見つかり,一人で地下鉄に乗れたんだという,考えてみれば幼稚な満足感がわいてくる。


写真10 リスボンの闘牛場


 周囲の駐車場は既に満車の状態で,子供相手の風船,ポップコーン,ジュー, A1godão Doceと書いたビラの下った綿菓子屋などの屋台が並んでおり,一方には闘牛士のブロマイド,相撲でいえば取組表,番付表のようなものを地べたに並べて売っている男もいる。(余計なことは書きたくないが, A1godão = 綿、Doce=菓子ということになる。日本では,関東は綿飴,関西では綿菓子と呼ぶが,どちらが正しいかを以前議論したことがあった。英語ではCotton Candyなので,関東の呼び方は英語系,関西はラテン語系であることが判った。)
雲一つない真夏の日ざしは35度ぐらいと思われるが,湿度が低いので汗も殆ど出ない。ここでも,人の後をつけて行くと,当日券の売場か場内入口のいずれかに行き当る。何せEntrada(入口)と表示してあっても我々には判らないのである。入口には立派な制服を着た男が何人か立っており,入場券の隅の方をちぎって中に入れてくれる。この時に男の顔を見て,人差指で右の方を指すと首を横に振るので,反対側を指すとにっこりする。これで自分の席は左の方に行ったら良いことが判る。内部は野球場と似たようなもので,コンクリートむき出しのカビ臭い殺風景な通路が円周状にめぐらされており,売店,便所がところどころに配置されている。座布団貸しの女がいたので一枚借り,入場券を見せて指で勝手な方向を指すと,ゲートは目の前であることを指で教えてくれる。ゲートを入ると,摺鉢状の席はかなりの人で埋っており,薄暗い廊下からやっと出て来た目には,夏の太陽は目もあけていられない程だ。空気が汚染していないためか,太陽の光は日本よりはずっと強いのである。ゲートには必ず案内人がいて自分の席まで連れていってくれる。腰をおろす前にチップを渡すのを忘れないことは劇場でも同じ。ホテルから30分ぐらいしかたっていないのに,えらい疲れようだ。ここでもまた,チラチラと見られていやになる。


写真11 闘牛のパンフレト


(2) 闘牛(Corrida,Tourada)

 こんどはこっちの番で,あたりを見廻すと日陰になっている席は殆ど満員で,反対側の日向の席はまだちらほらと空席が見える。目の下の競技場は直径100mぐらいの円形で,全面が赤土で覆われており,その周囲はぐるりと階段状の客席になっている。野球場と違うのは,摺鉢の陰で日陰になる南側に立派な貴賓席があること,客席最上段は外野も含め,全周にわたってアラブ風のアーチに支えられた屋根があること,芝生のグリーンがないことで,また,最前列の客席とリングの境は幅2mぐらいの通路があり,リングとの境には高さ1.5mぐらいの板塀が全周にわたってめぐらせてあることぐらいである。このため,牛は客席に飛び込むことはできない。しかし,時々リング際に追いつめられ,かわしきれなくなった闘牛士が場外に避難するときは,この板塀を飛び越えなければならない。ラテン系は時間がルーズだといわれるが,オペラなど劇場においても開始は定刻どおりである。


写真12 リスボンの闘牛場 場内の様子



写真13 貴賓席


 ブラスバンドの音楽が鳴り渡リ,一同静粛になったところで,先ず,全貝の入場だ。外野側の門が開かれ,第一幕として登場するCava1eiro達が乗馬で現れる。彼等は馬上から牛と対決し,飾りのついた鈷(Bandri1ha) を猛牛のうなじに打込む演技を行い,白い絹の服に赤や黄色のビロード地に金の刺繍をした上衣を着け,ピカピカの黒い乗馬靴を履き,ナポレオンのような帽子をかぶった18世紀の貴族のいでたちである。拍手が沸く,次いで茶色のズボンに赤の上衣,緑の三角帽子,白の長い靴下姿(これはポルトガル南部の農地,アレンテージョの農民の服装である)のForcado達が入場する。


写真14 入場の様子


 彼等は,第二幕として,素手で猛牛を押え込む役の闘牛士である。この他,逃げようとする牛を,エンジ色のケ一プでリング中央に誘い出す役目のCapa達が入場し,整列して正面の貴賓席に向つて挨拶をする。一番左側が横綱級の闘牛士で,これは,相撲でいえば横綱と幕内力士の土俵入りを一緒にしたようなものである。観客は自分の贔屓の闘牛士たちに応援の歓声をあげ,バンドの音もかき消されるほどだ。挨拶が終り一同が退場するといよいよ闘牛の開始である。
 なお,スペインの闘牛は三つの過程で進行する。最初は馬上から長い槍で牛を刺すPicadorの舞台,馬は牛の角にやられないよう重装備の防具をつけている。第二幕は、槍で刺されて血まみれになった牛に、更に銛を打ち込むBanderilla の登場面,最後はその牛を相手に,長さ1mぐらいの剣で首と肩の間を狙い,柄も通れとばかり突き刺して止めを差すMatadorの出番という順序で,一回目が終ることになる。
 さて,主催者の合図で牛の出口の扉が開かれる。牛は特別な牧場で育てられた体重400〜500kgのもので,飼主の言う事をよく聞く従順さと,強暴性を兼ね備えていることが必要で,普通は強そうでも,リングに出たら,大人しくなってしまうようでは使いものにならず,そのような牛を出した牧場は非難され,大恥をかくことになる。試合前に薄暗い部屋に押し込まれ,棒などで驚かされ続けた牛は興奮状態になっており,突然明るいリング内に出されると凶暴性を発揮し,目に見える物には何でも襲いかかって来る。先ず,助手がマントをあしらって牛をCava1eiroの方にけしかける。彼はこの間に馬上でその牛の性格,動きを観察し,頃合いを見て,飾のついた鈷 (Bandarilha) を首の近くに刺すことになる。Bandarilhaは深さが3僂阿蕕い靴刺さらないようになっている。片手で手綱をさばき,蒸気機関車のように突進して来る牛を巧みにかわし,隙を見て身をかがめ,下から襲いかかってくる牛に鈷を打つ技術は,相当な馬術の修練と勇気がないと出来ないと思われる。失敗して落馬でもすると命の保障はない。若し,落馬すると,マントを持って見守っている助手が牛に駆け寄り,地面に転倒しているCava1eiroに襲いかかる牛の注意を自分の方に引きつけ,再度鈷打ちの演技が始まる。時には,ゆっくりと牛に近ずき観衆をハラハラさせたり,敏捷に牛をかわしたりして,技術,優美さ,勇気で見る者を沸かせる。一瞬の隙に,鈷が打たれると,綺麗な色で飾られた長さ50僂阿蕕い慮擇鮗鵑里箸海蹐忙匹気譴燭泙泙,牛はいよいよ凶暴になって襲って来る。更に,次の鈷が打たれる。馬もかなりダメジを受けているように思えるが,スペインのような防具はつけておらず, Cava1eiroの命ずるままに一向に恐れを見せず,牛に反撃して行く。観衆は更に沸き,大声で応援を送る。


写真15 Cavaleiroの演技(1)



写真16 Cavaleiro の演技(2)


スペインでは「オーレ」,「オーレ」の合唱で声援するが,ポルトガルの場合,何と叫んで応援していたか思い出せない。この演技が終るとCava1eiroは満場の抽手に送られて退場し,第一幕の終りとなる。背中に何本かの鈷を打たれた牛はそのまま場内に残り,一難去っての一休みということになる。場外では次の出番である Forcada 達が,再び,牛が元気を取りもどしたのを見はからって,リーダーを先頭に8人がリングに飛び込む。これから,ポルトガル特有の素手での牛との取組み(Pega)が始まる。ポスターやパンフレットでは,Banderilhaを打つCava1eiro達の名前が大きく出ており,PegaをやるForcada達の名前は、その下に少し小さ字で書かれていることからすると、第一幕のCava1eiroの舞台が主で,第二幕のPegaは従のようなことらしいが,傷を受けて怒り狂っている牛を素手で押え込むForcado達の演技の方が見ごたえがあるような気がする。スペインでは牛は殺してよいことになっているので,危険になれば身を守るために殺すことができようが,ポルトガルでは殺してはいけないことになっているので,最後まで猛牛との戦が続くわけで,この意味で,ポルトガルの闘牛の方がスリルに満ちて面白いという意見がある。さて,リングの板塀を飛び越えて8人のForcada達がリングに入ると,トランペットが鳴り渡り,リーダーを先頭に一列縦隊になり,両手を腰に当てた格好でゆっくりした足どりで牛に近ずく。牛が向きを変えると,隊列も牛の正面になるように向きを変える。牛は再び元気になり,8人のForcadaに襲いかかる機会を窺う,動中の静といった感じである。牛が頭を下げ,土挨を立ててリーダーに襲いかかると同時に,彼は一人で猛牛の突進に立ち向かい,角を突き上げる直前に真正面から牛の頭に飛びつき,両手で角を掴み,牛の頭に抱きつけば成1功ということになる。一回で成功せず,足をさらわれて藁人形のようにほうり出されたり,やっと牛の頭にしがみついても振り落されたり,角に引っかけられたりして,闘牛が終ると身体中傷だらけになることがあるとのことである。失敗すると,再び前の一列縦隊になり,リーダーが“Eh, Touro ! Touro !"と叫び,牛に再度の突撃を促す。また人と牛との激突が始まる。観衆は手に汗を握り,リーダーが牛と激突する瞬問,目を塞ぐ人もいる。これをスローモーションで見ると,牛が近ずき角で突き上げる一瞬前に,両手でこれから突こうとしてまだ下を向いている角を,挺子でも外せないように両手でしっかり掴む。牛が突き上げると,彼は当然牛の頭に正面からかぶさった形になり,両股は牛の頭を挾み,膝で鼻ずらを押えつける格好になる。これが一瞬のうちに行われると,見守っていた7人のForcadaが駆け寄り,3人ずつがリーダーに組みつかれたままの牛の体を両側から押えつけ,残りの一人が尻尾を掴み,牛を動けなくしてしまう。ここでリーダーは牛の頭から降りPegaは終る。


写真17 Pega
リーダーの後ろに7人のForcadaが並んでいる



写真18 Pega
背中には銛が刺さっている



写真19 Pegaが終り牛を動けなくさせる


 場内は歓声で沸きかえり,花やテープがリングに投げ込まれ紙吹雪が舞う。相撲のように座布団を投げる奴もおり,大相撲を見ているような錯覚をおぼえる。やがて8人のForcadaは牛から離れ,観衆に挨拶をし,称賛を浴びながら退場する。この間,敗けた牛は助手のマントであしらわれており,全員が退場した後,牛は再び場内に残される。やがて,首に鈴をつけた数頭の慣らされた牛が,愛矯よろしく,鈴を鳴らしながら場内に入り,闘いが終ってまだ興奮さめやらぬ牛のまわりを歩きまわり,気を静めさせる。この牛の群が襲われないのはどうしてなのか不思議な気がするが,やがて,その一群の牛と一緒に仲間入リした形になリ場外に去って行く。勇敢に闘った牛にも歓声が沸く。これで第一回が終りになり,休憩があり,ジュースやポテトチップなどの売子が客席を歩きまわる。戦が終った場内では清掃と水撒きが始められ,別の闘牛士による二回戦の準備が進められている。スペインのように,場内が死んだ牛の血で染まるような残酷さは微塵もなく,ポルトガルの真夏の太陽は惜しみなく,平和な光を振り撒いている。

 書き終ってみると,前置きと,蛇足が多く,本題が短くぼけてしまい心苦しいが,頁の都合もありお許し戴きたい。また,ポルトガルとスペインの闘牛がごちゃ混ぜになり,記憶もうすれているので,ポルトガルにおいてもBanderi11aによる演技があったような気もするが,定かではないので取上げなかったことを断っておく。

注:本稿は、“コンテナリゼーション”No.150 1982年11月号に掲載されたものである。
2003年

参考
小学館 : 世界原色百科辞典
堀田善衛 : ゴヤ 第4巻
実業の日本社 : 1スペインの旅
A1bert Alain Bourdon : Histoire du Portugal
Miche1in : Espanã, Portugal
Firestone : At1as de Espaňa y Portugal
Carol Wright : Lisbon
Leopoldo G. Teixido : Programa de Toros
Mascarenhas Barreto : Origens Liricase e Motivagão Poēticica
Escudo de Oro S.A. : Todo Madrid, Todo Sevilla, Todo Lisboa



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